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「抜け作」と呼ばれた同胞がいた

 2010年5月3日、アピシット首相が上手に理屈をこね、政府のメンツを保ちつつ赤シャツの要求を一部飲む、という駆け引きに出た。今回の騒ぎを国家の問題として捉え、赤シャツのみを交渉相手とせず、後ろで操るタクシンにも屈することなく、国民全体に対してロードマップを提案した。◇国民一体の王室護持、◇社会的不平等の是正、◇憲法改正を含む政治改革——、といった和平案だ。その上で、赤シャツが要求する下院選挙を早期に実施すると発表した。

 赤シャツのリーダーたちはロードマップを受け入れると発表したものの、仲間割れが起きて(最も穏健で常識を持ち合わせていた)ウィーラがリーダーから退いた。ナタウットやチャトゥポンはラーチャプラソン交差点の封鎖を続行、ロードマップ受け入れと相反する行動を続けていた。これは翌週に死んでいった、カッティヤ陸軍少将に脅されたためといわれている。

 「ロードマップも発表されて、もう騒ぎは収集ですね」。
そんなセリフを残して日本に帰国、5月19日の「赤シャツ最後の日」を撮り損ねた同胞がいた。彼は、当時バンコクに集まってきていた日本人カメラマンから「抜け作」と呼ばれていた。

日本食メニュー横のベンチに腰を下ろす陸軍兵士

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