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戦争に駆り出された障害者たち ろう学校から小学生も動員

戦時中に発行された新聞。
タイトルに「盲人でさへ挺身」とあります。

つまり、
目が見えない盲目の人でも
身を投げ出して戦っている、と
国民の戦意を
高めようとしています。

あの戦争に駆り出された
障害者たちの
過去と現在を追いました。
(NEWS23 2018年8月24日放送)

「ロッキード・ハドソン
 高度1000メートル」

蓄音機から流れるのは
アメリカの爆撃機が飛ぶ音です。

レコードの名前は「敵機爆音集」。

敵の飛行機の音を
国民に覚えさせ
避難に役立てようと、
日本軍が製作したものですが、

戦時中、
これを使って特殊な訓練が行われていました。


5歳で視力を失った島津祐策さん(86)。

盲学校に通っていた小学生のころ、
このレコードを使って飛行機が敵か味方かを
聞き分ける訓練を受けました。

防空監視隊になるためです。

いち早く敵の飛行機を察知し、
戦闘や避難につなげる防空監視隊。

戦争が長期化して人材不足に陥ると、
日本軍は目の見えない人に
白羽の矢を立てました。


長年、戦時中の障害者に関する
資料を集めてきた岸博実さん。

戦時下では、
戦力にならないことを理由に
多くの障害者が差別されてきました。


先日、浜松市内の聴覚障害者の作業所に
旧浜松聾唖学校の元生徒たちが集まりました。

彼らは戦時中、
砲弾や航空機の部品をつくる
軍需工場へ学徒動員されていました。

学徒動員は中学生以上が対象でしたが、
浜松聾唖学校からは
2年生以上の小学生が
33人も動員されました。

幼かった彼らは
ただ従うだけでした。

1945年5月
浜松聾唖学校の生徒が
動員された工場は
アメリカ軍に狙われます。

空爆は
女子が逃げ込んだ防空壕を
直撃しました。

空爆は、高橋さんの友人の
谷下沢あい子さんの命を奪いました。

工場は跡形もなくなり、
彼らの動員は終わりました。

聾唖学校の生徒が
軍需工場で空襲に遭った記録は
残されていません。

ただ1つ、
校長室の片隅にある
2人の犠牲者の名前が刻まれた学徒の像が、
忘れるなと語りかけています。