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自分を“ちっぽけだ”と感じてしまうのは、ただの錯覚かもしれない

こんにちは!
分かりにくいタイトルにしてしまいましたが、楽しい話なはずです。
今回は「錯視」を使った話。

錯視(さくし)とは:視覚に関する錯覚のことである。俗に「目の錯覚」ともよばれる。生理的錯覚に属するもの、特に幾何学的錯視については多くの種類が知られている。だまし絵とは異なる原理による。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

今回は人知れず第1弾なんですが、すごいんです。
すごいことに気が付いたんです。

みなさんも、もしかしたら自分の事を錯覚してるかも。


さぁ、ではまずはこちらの錯視をご覧ください。

画像1

念の為書いておきますが、これ本当に赤い丸は同じ大きさなんです。
確かに右が大きく感じるものの、
“たしかにそう見えるね、不思議だね”
その程度の錯視だと思います。

ところがです。
少し視点を変えるだけで、これはすごい錯視になります。

仮に、真ん中の赤い丸が「あなた」だったとしたら?


騙されたと思ってこちらをご覧ください。

画像2

ムムッ!!?

そう感じてくれる方がいる事を願います。

僕はこの視点でこの図が見えた時、心の中で絶叫していました。

(左)すごい人に囲まれていると、自分を小さく感じる。
(右)大した事ない(と思う)人たちの中にいると、自分を大きく感じる。

自らの経験を振り返って、こう思ったからではありません。

「どちらのあなたも同じ大きさなんですよ。」


そう言われた気がしたからです。

“本当に錯覚していたかもしれない”

確かにどちらの環境にいた時も、自分自身は何も違っていなかった気がしました。

左の環境にいた時には、必要以上に萎縮し自暴自棄になったり。
右の環境にいた時には、必要以上の自信に溢れ、偉そうになってしまったり。

みなさんにも心当たりがないでしょうか。
では、最後にダメ押しで、この図もどうぞ。

画像3

上の錯視を立体的に捉え、個人パターンも追加してみた図です。

どうでしょうか。
改めて書かせていただきますね。

(左)箱の大きさと相対的に、自分を小さく感じる。
(中)箱の大きさと相対的に、自分を大きく感じる。
(右)比較対象がないぶん、自分の大きさは認識しにくい。

僕は(左)も(中)も経験した上で、現在は(右)の立場になりました。

日々悩んでしまう気持ちに、少し納得できた気がしました。

・自分なら、なんでも出来そうだと感じる日
・自分になんて何にも出来ないと感じてしまう日

「今までと違って、比べる対象がないから余計にそう感じるのか。」
そう思えたからです。

ちなみにこれ、なにも「会社」や「組織」に限ったことではありません。
□日本
□note
なんでも応用が利きます。

自分と何を比べるのかによって、自分の大きさの感じ方が変わります。
言わずもがな
□日本と自分
□noteと自分
こんな風な比較をしてしまおうものなら、そりゃ自分がちっぽけだと思って当然です。
比較対象が大きければ大きいほどこの「錯覚」は起きてしまいますが、この場合も「自分が小さくなった」訳ではありません。

これももう一度書かせていただきますが、この見方の素敵なところは、

「どのあなたも同じ大きさなんですよ。」


ここです。

つまり、あなたも私も錯覚しているだけなんです。きっと。


いつでもあなたはあなただし、あなたの大きさは周りの環境で左右される訳ではなく、自分で決める事なんです。たぶん。

自分が小さいと思うのなら大きくなる努力をするべきだと思うし、もしも周りに理解してもらえないと感じる人の中には、自分の大きさを勘違いした行動を取ってしまっていることがあるかもしれません。

言うまでもなく、今回のこれに明確な答えなどはありません。
ただ少なくとも僕にとっては、楽になれるきっかけになりました。
気付きといってもいいのかもしれません。

前回こんな記事を書きました。

自分を取り巻く環境を俯瞰して自分を観察することは、一見賢いようで加減を間違えると大事なものを見失ったり、しんどくなってしまう側面も持っているように思います。

結局月並みな表現になってしまいますが、もう少しくらい環境や他人の判断基準ではなく、自らがもつ基準を信じてあげてもいいのかなと、改めてそう思います。

ぜひご感想やご意見、お聞かせください!
最低でもあと9つは続けたいんですが、noteという大きな箱の中の自分を米粒大だと思ってしまう程度にはネガ・ティブ男なので、応援していただけると元気が出ます笑

ではまた次回!
最後まで読んでくださりありがとうございました!


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