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王安石は言う。私たちは、学ばなければならない

皆さん、漢文って得意ですか?
大学受験以来、ノータッチという方が多いですかね?

私は大学生となって受験勉強を教える側になっても未だに苦しめられ続けています。(笑)
ただ、たま~に、
Z世代である私の心にズシンと突くようなメッセージを
中国の偉人が漢文越しに送ってくれることがあり、
「これだから現代でも古文漢文が義務教育の一環なのかな」
なんて誰もがこぼしそうな言葉を口にしながら
日々、再度文字に四苦八苦しています。

それはさておき、
最近(正確には今年の3月ごろから)、ずっと脳裏を渦巻いているハテナがあります。
それは、
「何をするにも、『卓越性が欲しい』という煩悩が
誰の心の中にも住みついているのかな?」
という疑問です。

つまり、誰もが他人より秀でた才能を欲しがりながら
過ごしているのだろうかと、
私は一人で考えているわけです。
(まあ、この疑問の発端は、私自身が「何かしらの卓越性を容易に手に入れたい」という煩悩を抱いているからなのですが。)

こんな日々の中で読んだのが、
王安石の『傷仲永』

「あ~、漢文よみたくないし、ブラウザバック!」
というそこのあなた
どうかお待ちを!(笑)
以下に口語訳を引用しておきました。

無学文盲の小作農の家に生まれた仲永が、5才のとき突然、詩の天才を発揮し人々を驚かせたが、父親が、彼に学問させなかったため、20才の時には、ただの人になってしまった。王安石はこのエピソードから、天才でさえ教育を受けなければ”並の人”になってしまうのだから、”並の人”が、教育を受けなければ、”並の人”にさえなれないと説いた。

要するに、
王安石は、たとえ神から才能を授かった天才であっても勉強を積み重ねなければ凡人になり下がる。もっとも、凡人が勉強をしなければ、凡人でさえいられない!
と、教育の大切さを説いている、という内容になります。

「そんなこと、火を見るよりも明らかだよっ」
なんて言いたいような内容なのに、
なぜか図星を突かれたような感覚が残りませんか?

結局、卓越性だとか、日の目を浴びたいだとか、
そんな煩悩を抜かす暇があったら、
着々と、学ぶべきことを学び、実力を自力で身に着けろということなんですよね、きっと。

あのエジソンも

「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」

という有名な言葉を残してますから、
おそらくゆるぎない真理なのでしょう。

なにより、現代には勉強ツールが溢れていることですし、
先人たちが積み重ねてきた知識と知恵とが残されているわけですから、
こんなに教育に恵まれた時代に生まれといて、勉強から目を反らそうものなら
王安石はどんな皮肉を綴るのでしょう?

ちなみに、
王安石って、1021年12月生まれとされているから、
自らの文学を介して
1001年先を生きる我々に募る煩悩を突っついてるってことになります。


先人たちの戒めは、なんとおそろしい。。

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