『オッペンハイマー』クロスレビュー②
私は『オッペンハイマー』という映画を高く評価したいと思う。『オッペンハイマー』は一般的には伝記映画とされている。しかし、私は伝記映画として評価しているのではない。オッペンハイマーやマンハッタン計画について知りたいのであれば、NHKの歴史番組を見た方がいいとまで思う。では、この映画のどこがいいのか。この映画の評価するべき点は、「罪」について我々に考える術を与えてくれるところである。オッペンハイマーの罪とはもちろん原爆を生み出したことだ、と人々は思うだろう。実際そうでもある。しかし、当たり前なことだが、原爆を生み出したのはただ1人の意思で、その罪が1人にのみ背負わせることができるものかというとそうではない。原爆を作ろうと思った人間、作った人間、落とすことを決めた人間、落とした人間、その結果に喜んだ人間がいる。さらに考えるべきは、オッペンハイマーが原爆を作らなかったとしても誰かが"原爆の父"になっていただろうということである。罪の所在を求めると、その範囲は際限なく広がっていく。我々は映画に映る人々全てに「罪」を見ることができる。「罪」の所在を1人に求めてしまうことも多い我々にとって、この映画は「罪」について考え直す試金石となるだろう。
また、この作品ではオッペンハイマーのもう一つの罪が大きくクローズアップされる。その罪は、原爆の罪に比べて小さいとされるであろうものであり、卑近な罪であると言ってもいい。それでも、オッペンハイマーが自分で手を下したわけではないが、確かにオッペンハイマー自身の罪であるという点では原爆におけるオッペンハイマーの罪と同じであり、2つの罪は同じ根を持ってさえいる。このある意味で小市民的な罪に苦しむオッペンハイマーに対して、その妻キティーが述べた言葉は大きな罪についても示唆を与えてくれる。正直見るのも辛いところがあったが、このセリフのためには必要な場面だったのだと思うことができた。側から見ると全く異なる罪だが、確かに同じ「罪」である。この大小の罪の対比と接続こそが、この映画を非凡なものにしている。
他にも、この作品からは様々な対比を読み取ることができる。例えば、原爆を作ったオッペンハイマーが原爆の起こした悲劇の実態を知り罪の意識を感じる一方、原爆投下を決めた大統領のトルーマンは罪が自分にあるとしながら原爆投下を必要なことだったとしている。マンハッタン計画参画後は水爆に反対した"原爆の父"オッペンハイマーと、参画後も水爆の完成を目指した"水爆の父"テラーの2人もまた、対照的であるといえる。全編を通して描かれる「対比」も、個人のもつ「罪」への考え方を浮き彫りにしてくれる。
これまで述べてきたように、「罪」に関する示唆に実に富んでいる点において本作は見るべきところがある。しいてこの映画の注意点を述べるとすれば、時代背景を知っていないと序盤の場面が分かりづらくなるところである。知らないとしても段々と状況がわかってくるとは思うが、最初は少し置いていかれるかもしれない。さらに留意すべき点は、現実のオッペンハイマーと映画のオッペンハイマーとは、別の存在であるというところだ。映画のオッペンハイマーは実際のオッペンハイマーを全て反映しているわけではなく、その心情を全て知っているわけではない。映画ではそこまで描かれなかったが、オッペンハイマーは戦後に訪日している。オッペンハイマーはそこで原爆開発に関わったことを後悔はしていないこと、それは申し訳ないと思っていないということではないことを述べている。オッペンハイマーは何を思い、何を考え、その「罪」とは何で、「罪」についてどう思っていたのか、核兵器の次の時代に住む我々は考えていくべきだろう。その人そのものではないが、映画のオッペンハイマーの「罪」とその葛藤は本物である。考えるべきことを考えるために、本作は確かな助けとなるはずである。
(藤巴)
はじめに断っておくと『オッペンハイマー』は決してつまらない作品ではない。科学者たちの戦争を描いた前半部分は、マンハッタン計画のスケールに圧倒されるばかりだったし、後半に示される優れた伏線回収の技巧は良質なミステリに通ずるものがある。事前情報なしでこの作品を観ていれば、長さの問題はあれど、あるいはかなり楽しめていた可能性もある。しかしアカデミー賞を総なめにした、巨匠ノーランによる3時間の大作という看板のもとこの作品を観たとき、やはり物足りなさは否めなかった。
『オッペンハイマー』という作品の最大のテーマはオッペンハイマーその人だろう。「原爆の父」とは何者だったのか?に、原爆開発競争以降の彼の足取りをときに直接的にときに間接的に追うことによって、接近しようとする。しかし赤狩りまでの長い射程を視界に入れようとしたばかりに、なにかチグハグなものになってしまったというか、特に前半部と後半部での作品の質のズレを感じずにはいられない。原爆開発という人類史的なスケールでのある種の達成、あるいは罪に対して、赤狩りというアメリカ国内での政治闘争に過ぎない問題を接続するのはどうしてもアンバランスに見えるし、そこで作品内の論理の変質をみてしまう。
3時間という長時間映画であるオッペンハイマーだが、この長さは本当に必要だったのだろうかという疑問も残る。後半部分の密室劇は前半部から途切れ途切れに挿入されていた公聴会・審問会シーンの欠落部分を補強していくものだが、なにか新しい視座が与えられるわけではないから、退屈という印象は免れ得ない。与えられた点線をその通りになぞるような予定調和感のある後半部分への不満がそのまま作品全体への不満に繋がっている。
そして最大の疑問が原爆の扱い方である。オッペンハイマーの罪悪感や苦悩にしろ、原爆による世界の決定的変質にしろ、原爆に関してはこの映画は手垢のついた問題を優等生的に扱ってみせるばかりであり、20年代に造られた原爆映画がこれでいいのかと思わずにいられない。勿論、オッペンハイマーは原爆だけに焦点を当てた映画ではないし、これだけ原爆について議論が尽くされている現代において、新しい原爆の描き方を提示するのがどれほど困難かということも理解できるが、さすがにこれは失望が拭えなかった。
総じて不満ばかりをたらたらと述べてきたが、オッペンハイマーが世界的に評価されているのは事実である。ノーラン渾身の大作として観なければならない映画ではあるのだろう。
(葉月)
世界的に知られる監督の最新作について無名の学生が発するおしゃべりが紙に印刷され、不特定多数の読者に配布される。あるいは、えたいの知れない匿名の言説が読者の手に取られ、運が良ければ捨てられず目を通される。誰もが説明を求め、意味につかれたこのような風景のなかの一部であることを引き受けた上で、数十分前に見終えたばかりの『オッペンハイマー』をめぐって、書いてみたい。
たとえば一枚の写真が画面に映し出されるとき、作中でわざわざ「これは死んだ戦友たちの遺品で」云々と説明を語らせねば気が済まないのが現代の退屈な映画であり、頼まれる前からシーンの意味を解析して御託を並べるのが、現代の観客である。日頃多くのフィクションに接していても、いやむしろだからこそ、現実の歴史(というフィクション)をもとにしたフィクション作品から、「実話」との関係やわかりやすい伝記的要素、(同)時代性しか見いだすことができないような「症状」を呈してしまう。
現代に生きる誰もがそうした形でしか作品に接近することはできないにしても、ぎりぎりまで論理的に構成された上で、歴史や意味の秩序に回収されない「謎」をかいま見せてくれる希有な映像作品について、最低限反省的に考え感じようとするポーズすらとれず、反省もなく己の鑑賞体験の貧しさを作品に転嫁するような態度は、恥ずべきものだろう。ともあれ、どうしてかくも映画と無関係にみえる駄文を綴っているかというと、矮小な自分を圧倒した崇高な映画体験について、映画評を書き慣れない者の不用意な言葉で踏み込みたくないからなのである。
『オッペンハイマー』という映画を観た者は、「表象不可能性」や「核時代」や「戦争責任」といったものについて、各々の見解や誤解を好きにおしゃべりすることができる。スクリーンには、それぞれの関心やものの見方が投影される。たとえば、わたしがこの映画を観ながら連想したのは、とあるミステリ作家が虚構的キャラクターとしての「名探偵」を形容して「道化の神」といったこととか、『オイディプス王』や『マクベス』のような悲劇における「謎」のこととか、法廷の被告と原告のこととか、「論理のアクロバット」のこととか、『十日間の不思議』のこととか、そんなようなことである。つまり、ひとはいつも考えているようなことしか、「読む」ことはできないのだ。
自然と人間のからくりを検知し、自在に操作し構築することに卓越した「原爆の父」は、オイディプスのように聡明で、スフィンクスのように謎めいている。われわれは見事なサスペンス的演出や伏線の編集技巧に驚きながら、自分なりの方法で、その「謎」を解こうと足掻くしかない。
ところで、海の向こうの彼らの物語が「わたしたち」の歴史に接続されたときに喚起された不思議な気分と、その行為の意味を語ることなく国家への奉仕を願い続けたオッペンハイマーの「謎」は、どこかでつながっているような気がしてならない。その答えは、はたして?
(赤い鰊)
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