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『ゴジラ×コング 新たなる帝国』

BLACK HOLE:VIDEO 2024年5月

新作映像作品レビュー企画。姉妹企画「BLACK HOLE:VIDEO」「EXTRA」「MICRO BLACK HOLE」とともに、毎月末更新予定。敬称略。

 ゴジラとコングの決戦から数年が経ち、ゴジラは地上の、コングは地下世界の王となっていた。あるときコングは同族と思しき怪獣たちの暮らす集落を地底世界に発見したが、そこは地上侵略を目論む悪の怪獣に支配されていた。一方そのころ地上では、異変を察知したゴジラが世界各地で人間や怪獣の溜め込んだエネルギーを強奪し、自らの強化を図っている。 

 「人間ドラマがつまらないからさっさと怪獣を出せ」という感想を投げかけられなかった怪獣映画は少ない。とくに、本作も属する「モンスターバース」は毎回のように人間ドラマの退屈さを批判されてきたシリーズだ。そんな中、前作『ゴジラVSコング』(2021)で完全に「バカ映画」路線へと舵を切ったアダム・ウィンガード監督は、この批判を躱すために、驚くべき解決策を提示した。つまり、退屈な人間ドラマを撤廃し、「怪獣ドラマ」を話の主軸に据えたのである。
 上に掲げたあらすじを眺めて貰えば分かる通り、本作の人間たちは物語の本筋にぜんぜん関与しない。代わりに濃厚な物語を紡ぐのは、コングやゴジラをはじめとする怪獣たちである。

 ちょっと不器用だけど心優しい正義の怪獣コング。彼は地底世界で孤独に苦しんでいたある日、生意気な子供怪獣「スーコ」と出会う。ぶつかり合いながらも互いに心を開くようになった彼らは、地下世界で弱者(弱怪獣?)を虐げる悪の怪獣「スカーキング」に立ち向かうことを決心する……といった感じで、ありがちなヤンキー映画の文法にも見える。おそろしいのはこの全てが「ウホ」と「ウホウホ」だけで表現されていることだ。「あれは〜〜と言っているのです」などとご丁寧に翻訳してくれるキャラクターはいないし、そもそも人間は画面に映らない。怪獣の擬人化と娯楽作品化を極めつつあった昭和のゴジラ映画でさえここまで極端なことはしていなかったと思う。ゴジラ映画の新境地であろう。

 しかしながら、このような、人間(あるいは人間の代弁者)の視点を完全に失った方法によっては、「怪獣」というものを十分に描くのは不可能なのではないか、というのが、私の率直な感想になる。
 たしかに、人間の言葉を全く使わない怪獣たちだけで物語を進めているのを数十分間も眺めるのはかなり変な体験であり、それはそれで面白かった。しかし、怪獣が物語を進めるということは、怪獣のスケールが通常のスケールになり、怪獣の感覚が通常の感覚になるということだ。すると、怪獣を怪獣たらしめる最も重要な要素──巨大であること──他の生物と一線を画していること──を描くことができない。つまりこの映画の怪獣は、ほとんどの場面において、単に知的な動物である以上の価値を失ってしまっている。 
 とくに地下世界のシーンでは、世界そのもののスケール(地形など)が怪獣基準になっているので、怪獣たちが数十メートル級の存在であることが画面から全く伝わらない(コングやスカーキングで100メートル前後、かわいらしいスーコでさえ50メートル弱もあることに、いったい誰が気付くだろう?)。
 これでは猿の社会を追いかけたドキュメンタリー番組を観ているのと感覚は同じであり、怪獣映画としてはきわめて退屈なものになってしまう。

 「アニゴジ」三部作の三作目『GODZILLA 星を喰う者』では、「ゴジラは、人間によって憎まれ、殺したいと願われてこそゴジラであり、そうでなければただ巨大なだけの生物にすぎない」という主張が展開された(※)。つまり、人間なしに「怪獣」は存在し得ないというのだ。
 どうにも私には、人間の視点から怪獣を見上げることを放棄した本作が、アニゴジで描かれたような意味において怪獣の「死後」を描いているように思えてならない。
 …………なんだか変な方向に話が逸れたが、要するに、怪獣はもうちょっとローアングルで撮れよということだ。(当のアニゴジも怪獣の迫力不足を散々指摘されてきた作品ではあるのだが)

 とはいっても、終盤における怪獣たちの殴り合いには迫力とケレン味があって見ていて愉快だし、劇場でガッハッハと笑って帰ってそれだけという映画体験も昨今ではむしろ貴重かもしれない(それを実現するための細やかな気遣いも含めて)。
 ゴジラとコングが悪い怪獣をぶっ飛ばす! というフォーマットも今作で完全に確立されたので、ここからは無限に新作を作ることができるハズだ。上で述べたような不満もその中で解消されていく可能性がゼロではない。シリーズの今後に期待したい。

(牛の眼)

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