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保健室の先生の励まし③(笑顔で)

(写真は、現在の母校です)

連絡の取れない友人の事が気になり、悶々としていた2、3ヵ月の間、自分のこれまでの人生等、色々な想い出が甦りました。

20年程前、娘が小学5年生の時に、あわや登校拒否か、という事がありました

ある朝、ランドセルを背負って登校の準備はすでに整っているのに、洗面所から動く気配がありません。鏡の前で、何度も前髪を撫でるように触って鏡を見ていました。これは何かあったのかもと思い、娘を居間に呼んで椅子に掛けさせました。

「学校に行きたくないの?」と聞くと、心ここにあらずという様子で、無言のままでした。
「どうしたの、誰かにいじめられたの?」
「誰も話しをしてくれない」とようやく口を開きました。

自分の小学生時代の辛い記憶が一気に甦り、(ついにこの日がやって来た)と心配をするような、やる気が出たような複雑な感情が芽生えました

私は確固たる自信を持っていました。それは子供の頃から、将来自分の子供が辛い状況になったら、保健室の先生に励まされた、あの言葉で立ち直らせよう。と小学生ながらも強く心に決めていたからです。潜在意識に深く刻まれていたのだと思います。

「誰も話しをしてくれなくても、遊んでくれなくても堂々として、私は平気、という顔をしていなさい。弱々しく下を向いて、びくびくしていると、益々誰も話しをしてくれないから、貴女は強い、いじめる人は本当は弱い人だから」と娘を励ましました。何十年も前のあの日の保健室の先生のように、優しく。

〈これはお母さんのお守りです〉と書いた小さい紙を見せて、更に小さく折り畳んで筆箱の中に忍ばせてあげると、明るい表情に変わりました。幸い小学校が近い事もあり、焦らずゆっくり話して聞かせる事が出来ました。
登校する娘の背中を見送りながら、無事に学校に行ってくれた、遅刻をしないで良かったと安堵しました。

娘が帰るいつもの時間に、玄関の引き戸がガラガラーと勢いよく開き、開口一番に「おかーさーん。友達が話しをしてくれた」と台所の奥で家事をしている私に聞こえるように、大きな元気な声で言いました。拍子抜けするぐらいのスピードで事が終わりました。
早期発見、早期対処が功を奏し、私のあの日の辛い経験が生かされて、登校拒否を回避した。と確信した瞬間でした。 

そんな事を思い出していると、連絡の取れない友人の事が、また気になってきました。やっぱり確めよう、そうだあの人だったら分かるかもしれない、と行動に移す事にしました。

あの人とは、連絡の取れない友人の高校時代の友達で、女性の会社経営者です。電話番号はネットで調べれば、なんとか分かるかも知れないと考えて直ぐに調べました。 

電話をすると「こちらから、折り返し電話をかけさせます」とスタッフらしき方が言われました。それから間もなくして電話の音が鳴ったので、緊張の面持ちで電話に出ると女性経営者の方でした。
「電話を頂いたようですが、私の同級生ですか?」
「同級生というか、同じ学年ですが、同じ学校に通った事はなくて…」しどろもどろになってしまいました。
「お忙しいところ申し訳ありません。実は気になる事があって教えて頂きたいのですが」
「実は彼女は2年位前の2月に、亡くなったんですよ。まだコロナが流行る前でしたね」
「そうですか、全く知りませんでした。去年の11月に出した義父の喪中はがきが戻ってきたものですから.......乳癌が悪化したんでしょうか」
「いえ、そうではなく…自死でした」
私は衝撃を受け、言葉を失ってしまいました。
「どこでお知りになりましたか?」「東京在住の1年先輩の女性から電話を頂いて知りました。娘さんたちを東京に残して、大阪のお姉さんの所で通院していたから大丈夫だ、と安心していたんですが…」
色々な事で精神的に参っていたのだろうと察して矢継ぎ早に質問する事を止めました。

その女性経営者の方に教えてもらった後、直ぐに名古屋の友人に電話で報告をすると「何も相談に乗ってあげられなかった、私の怠慢だな、ショックだな、いつか一緒にお墓参りをして、彼女の想い出話をしようね」と消え入りそうな声で言いました。
名古屋の友人は、彼女とは中学生の時からの友人で、小学生の時の彼女の事を知りません。

久し振りに彼女か帰省した日に空港で待ち合わせをし、私はランチをご馳走する予定でした。
しかし彼女が奢ると言ってきかなかったのです。
その時、高校の同級生の男性から「子供の頃、やんちゃだったらしいね」と言われた。と言って苦笑いをしていました。
そんな昔の事なんか、と笑い飛ばせば良かったのに真顔になって沈黙をした事を少し後悔しています。
その日に、自宅に帰り着くと『小学生の頃、われこっぼ(いたずらっ子)だったのに、今までずっと仲良くしてくれてありがとう』とメールが届いていました。
小学生時代の嫌な思い出が心の何処かにあり、良心の呵責に苛まれる事があったのかもしれません。

彼女は、離婚の苦労もありましたが、その後の私生活も仕事も大変努力をしていました。何故亡くなってしまったのか、世を儚むような出来事があったのか、今となっては知る由もありませんが、詮索したところで仕方のない事です。

たまに東京で会う時は、いつも素敵なお店を予約してご馳走をしてくれました


次男が大学受験で上京した時、私もついて行ったので、待ち合わせをして会う事になった時の事です。携帯電話を片手に「今何処にいる?周りにはどんな物が見える?」とお互いに言っていると、見ている景色が全く同じ事に気がつきました。しかし、お互いの姿は見えません。
待ち合わせ場所に一つの電話ボックスがあり、その周りをお互いが見えない、ほど良い距離で右往左往グルグル回っていました。何分間そんな面白い動きをしていたのか覚えていませんが、お互いに気づいた時には大笑いでした。
辛い想い出もありましたが、学びがあったから良かったのです。楽しい想い出も沢山あります。本当にありがとう。
友人の夢を見た時に、もしかしたら亡くなっているかもしれないと、悪い予感がしたのですが正夢になってしまいました。

次の夢で会う時は、俯かずお互い笑顔で

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昨夜、次男が撮影したばかりの中秋の名月の写真を、追悼の文章に添えて良いから。と送信してくれました。

心からご冥福をお祈りいたします。




#2000字のドラマの

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