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音楽の通り道

最近ちょっと反省しているのは、これまでの自分の音楽の聴き方が独善的だったかもしれない、ということ。

若いころこそ、同じ曲を盤を変えて聴き比べることはマストだったけど、いまみたいに簡単に検索して並べることが容易な時代ではなかったので、一度好きな盤に出会ってしまうとそれ以上追うのが時間的にも金銭的にもしんどい、ということはけっこうあった。

そうやってお気に入りの盤ができたら、それが自分の中で「正解」になり、独特な表現者の演奏が受け入れづらくなる。
年を取ると新しいものを摂取するにもパワーが必要で、余計に「挑戦」が難しい。
で、ますます同じものしか聴かなくなるという悪循環。

それはすごくもったいないことだった。
私の見ていた音楽の世界はすごく狭かったし、自分で狭くしていたのだけど、そのことに気づかせてくれたのは、他ならぬピアノだ。
オーケストラ曲ばかり聴いてきたので、ピアノ曲は私にとってブルーオーシャンだった。
ピアノ曲という聖域を残しておいた自分、ほんとグッジョブ。
未開の地がどこまでも広がっている。
なんて嬉しいことだろう。

最近、自分の中でちょっとした「シューマンブーム」が来ているので、いろいろ検索していたら、こんな動画に出会った。
これは何十年と聴いてきた音楽の中で、十指に入るくらいに胸打たれる演奏だ。

きっとずっと大切に大切に弾き続けてきたに違いない。
上手い下手とは全然次元の違う感動がある。

ピアノを弾くとき、音楽はただ私を通り抜けていくだけなのではないか、とよく考える。
演奏家はただの通り道。
作曲家と聴衆を繋ぐ通り道で。
綺麗に舗装された道を滑らかに流れる音楽もあれば、石ころが転がっていたり穴が空いていたり、その度に流れが止まってしまう音楽もある。

でも、流れてくる音楽そのものの価値は変わらない。
できるだけ綺麗な道を作る努力は必須だけれど。
その道の作り方にその人らしさ(有体に言えば解釈)が滲むだけで、流れる音楽の価値は変わらない。

もちろん、稚拙な演奏によって音楽が毀損されたように感じる向きもあろう。
流麗な演奏による付加価値も当然ある。
でも、私たちは演奏技術のみに感動するわけではないし、演奏の中に光るたった一音に心奪われることもあるのだ。
道の綺麗さより、その道を通って届けられる音楽に心を払いたい。

みたいなことを、あの演奏を聴いてからよく考えている。


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