「雅楽」・・・それは日本のクラシック音楽、そしてオーケストラだ!
日本人が初めて「管弦楽」を知り、導入したのは明治時代だ。まずは吹奏楽、そして鹿鳴館時代になって弦楽器演奏にも日本人はチャレンジし始めた。吹奏楽はペリーの軍楽隊の演奏が歴史に残されている最初の受容だと考えられているが、その後薩摩藩で軍楽隊が組織されたのが日本吹奏楽の発祥とされている。その指導をしたのが英国人のフェントンという人物で、その指導は横浜市にある妙香寺という寺院の境内で行われた。そのため妙香寺は「日本吹奏楽発祥の地」として現在石碑が残っている。また「君が代」の詩に初めて旋律をつけたのもフェントンで、同寺には「君が代発祥の碑」もある。その旋律は現在の旋律とは異なる西洋風の和音がつけられていたもので、日本語の語感にも合わないものであったので、のちに別の旋律がつけられた。それをおこなったのは現在は宮内庁楽部となっている組織のメンバーであった林廣守ら。西洋音楽受容に際し、中心的な役割を担ったのは宮内省雅楽部のメンバーたちであった。弦楽器演奏の習得を黎明期に行ったのもこの宮内省雅楽部のメンバーである。彼ら雅楽家は式部寮怜人(のちに宮内省楽部楽師)と呼ばれる人々である。
彼らは陸軍軍楽隊の関係者や前述のフェントンから吹奏楽の指導を受けたが、同時に自主的に弦楽器にも取り組んだ。それは日本での「管弦楽演奏」を目指してのことだった。彼ら怜人は東京音楽学校(現・東京藝術大学)の前身である「音楽取調掛」の事業にも教員や伝習員として関わった。鹿鳴館での舞踏会の伴奏をしたのも陸軍軍楽隊と式部寮怜人たちであった。つまり我が国の伝統的音楽「雅楽」の歴史を繋いできた楽師が、日本の西洋音楽受容についても大きな役割を果たしたのである。日本のオーケストラ奏者の起源ともいえる雅楽師が本来担当し、演奏していた「雅楽」について簡単に触れていきたい。
西洋人だけが、暮らしの中に「音楽」を持っていたわけではない。日本人をはじめ、全ての地球人は祭祀の際、または集う場での「音楽」を持っていた。日本でも歴史書以前から「音楽」を持っていたし、「銅鐸」も祭祀の時の楽器ではなかったかという説もある。中国の歴史書にも邪馬台国の祭礼で「音楽」が奏されたと記録があり、古墳時代には大陸からの渡来人の「楽人」についての記述を見ることができる。
明治時代に日本人が西欧の文化を貪欲に吸収した「文明開化」のように、古墳時代から飛鳥・奈良時代は、東アジアの音楽文化、さらには遠方のペルシャ音楽も伝来し、それを日本人は貪欲に吸収し自分達のためにアレンジを加えてきた。「音楽」という面において、そのことは「文明開化」に匹敵するような文化的変化であったと推察される。
701年、日本史の授業でお馴染み「大宝律令」の「大宝令」において音楽(舞や歌)を司る「雅楽寮(うたまいのつかさ)」が設置され、そこを中心に朝廷での音楽が教授され演奏されていくことになる。
当時のこのような音楽は「宮廷文化」と「仏教文化」の中で発展、深化していった。奈良東大寺の大仏開眼落慶法要の記録にも舞や音楽についての記述がある。また大仏建立をライフワークとした聖武天皇の遺品を集めた正倉院には多くの「楽器」が収蔵されている。もちろん実用的な楽器であるが、それ以上に現在では「価値ある美術品」として知られている。
このような背景から、平安時代に至り「雅楽」の担い手は「宮廷貴族」となっていて、多くの名人が生まれている。雅楽の楽譜を編纂した源博雅や、音楽家として名を残した貞保親王、敦実親王、藤原師長などが知られている。平安時代には現代に伝承される雅楽の姿が確立されたといえる。その確立されたスタイルの中で平安時代末期に「モダン」な音楽として登場するのが「今様」で、当時の権力者である後白河法皇が愛したジャンルとされている。その今様で、現代まで広く演奏されているもののひとつが「越天楽」だ。この曲は能や箏曲に取り入れられたり、「酒は飲め飲め、飲むならば〜」の歌詞で知られる「黒田節」のように歌詞をつけられて歌われたりしながら受け継がれてきたものである。
「越天楽」は多くの作曲家がオーケストラ曲にアレンジしている。松平頼則、伊福部昭、そして近衛秀麿の編曲が広く知られている。松平の作品はピアノ協奏曲の形式をとっている隠れた名曲だ。この3名の出自を見てみると、松平はその姓が示すように大名家、伊福部は大国主命に起源を持つとされる出雲の神職、近衛は「五摂家」と呼ばれる上級貴族の筆頭、近衛家の人物である。いずれも日本古来の伝統文化と密接に関わってきた家であることは興味深い。
中でも日本のオーケストラ界の功労者のひとりである近衛の「越天楽」は現在でも広く演奏されている。近衛は日本のオーケストラの礎を築いたばかりではなく、ベルリンフィルをはじめ多くの海外オーケストラを指揮した最初の日本人である。その近衛が名刺がわりにそれらのオーケストラで演奏したのが「越天楽」であった。アメリカの名指揮者ストコフスキーとも親交があり、ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団の演奏によるレコード録音が残されている。「おやかた」と呼ばれた近衛は、リハーサルで公家の言葉を使っていたそうだ。また自らの指揮をフルトヴェングラーをもじって「振ると面食らう」などと言ったりするようなユーモアも持った人物である。近衛についてはまた筆を改めたいと思う。
雅楽は篳篥、龍笛、笙といった管楽器や、箏、琵琶といった弦楽器(撥弦楽器)、そして打楽器で編成されているが、それを近衛は西洋のオーケストラに見事にトランスレーションしている。近衛の「越天楽」を聞くと一瞬、雅楽の演奏かと見紛うほどである。これは貴族が受け継いできた雅楽と、本場ヨーロッパのクラシック音楽の両方を深く知っていた近衛ならではの仕事である。
近衛家の家祖は近衛基実、基実の父は藤原忠通という。近衛家は藤原氏一族なのだ。藤原氏には色々な系統があるのだが、近衛家は「藤原北家」である。前述した藤原師長も藤原北家の人物である。実は近衛家は代々雅楽を統括する家なのだ。秀麿の兄で内閣総理大臣を務めた近衛文麿も音楽に造詣が深く、早生した弟の直麿も雅楽研究者、ホルン奏者であった。そのような雅楽の本流と西洋のクラシック音楽の美しき出会い、それが「近衛越天楽」なのではないだろうか。
雅楽器だけて演奏される編成のものを「管絃」という。西洋の「管弦楽」と意味は一緒だし、「管絃」は立派な「オーケストラ」だ。僕達にも古くから「オーケストラ」を持つ「クラシック音楽」が存在していたこと、それが便宜上「雅楽」と呼ばれていることは重要な視点だ。海外からの輸入、しかも近代になってから受容されたものが「クラシック音楽」だと考えてしまっては、やはり「少し遠い」存在に思えてくる。しかし曲調や編成こそ違えど、日本にも伝統的な「オーケストラ」が存在することを考えたら、日本人の心の深いところで「管絃楽(管弦楽)」を自分達の音楽として感じられるようになるのではないだろうか。
そして、その二つの「オーケストラ」を結びつけた人たちが、古来からの雅楽を担当してきた「雅楽師」たちであったことを忘れず、彼らの不断の努力に敬意を表したい。
オーケストラに、乾杯!
(文・岡田友弘)
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