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新しい自分を生きるために「断捨離」がなぜ効果的なのか?

こんにちは。いろさいです。

前回の記事の中で、物に囲まれすぎて生きていると「人間としての存在の在り方が重くなり、自分の内側の創造の火が発揮できなくなる」といったことについて触れました。

今までの私達は、「物を持つことで豊かになる」「物資的豊かさ=人間としての豊かさ」という思想の元で生きてきたため、いかに多くの「物」を所有するか、「物」を持つことをどのように維持するか、に焦点を当てて生きてきました。その根底には「私達は足りていない」「物がないと生きていけない」という不足の意識があります。これが根本にある限り、いつまでたっても私達は物を持っても豊かになることは出来ず、またそういった不足の意識で持った物たちは、それを所有し続けることで、いつまでたっても私達を「不足」の意識で縛り上げることになり、どんどん人間として存在することが重く息苦しいものになってしまいます。

断捨離やミニマリスト等が広まっていったのも、無意識下で「物に支配されてきた生き方から解放されたい!」という、突破口を探してきた人たちの明らかな助け舟だったからなのかもしれません。しかし、私達は物を得ることは比較的容易にできても、物を捨てることや手放すことは簡単にできない人が多いことも事実です。それは「物をたくさん得る」というゴールが社会全体で共有されており、そのゴール以外の選択肢を選べず、そのやり方を知ることすら出来なかったからなのではないでしょうか。今まで教わってこなかったものはこれから自分で獲得するしかなく、実践を交えて試行錯誤して物を捨てるスキルを得ていくしかないと考えます。

私は10年近く断捨離を意識的に取り組んで来た結果、物を捨てるということがいかに自分の人生を軽くするか、また自分の人生を変えるきっかけを与えてくれるかを実感してきました。これは何故か?と考えた所、物を手放すという行為は、自分が得た物についての「動機や物語にちゃんと自分で決着をつけるからである」ということだからだと指摘します。もっと掘り下げて言うと、「物を手放すことで、張り付いた未浄化の感情を昇華することができる」ということです。

例えば、「新しい部屋着が欲しいな」と思うとします。そしてお店に行き気に入った部屋着を見つけて買って帰ります。そしてその買ってきた部屋着を着ます。そして着続けていると、ある日その部屋着がぼろぼろになっていることに気が付きます。そしてその部屋着を処分して、新たに新しい部屋着を欲しいと思います。

ここで注目したいのは部屋着を買った動機です。「部屋着がほしいな」と思って買った部屋着は、その部屋着を使い切ることでその「物」との動機、いわば物語が終了することになるのです。なので、部屋着として成り立たなくなったものは「手放す」ことでその動機と決着を付けることになります。これが物を手放すことの醍醐味です。決着を付けることで新しく物事を始めることが出来ます。

「物」は得ることではなく、使うことでその本領を発揮します。そして使い切った後は弔いの意味を込めて手放すことが大事です。物事には始まりがあれば終わりがあります。自分の意図で始まったことに関して自分で終わりを付けていくのが積極的な生き方の姿勢です。これが自分軸の生き方とも言えます。

で、なかなか物を捨てることが出来ない件については、私は「多くの人が不足感から物を得たため、その終わりに決着を付けるのが難しい」からだと考えます。

例えば「これを着たら男ウケ(女ウケ)するから」という動機で服を買うとします。ここには「自分はこういった服を着ないと男性に(女性に)魅力的に思われない」という不足感の動機で服を購入しています。外軸をベースにしてゲットしたものは、最初は頑張って使おうとしますが、結局はそれを使いこなすことが出来ずにタンスの肥やしになってしまいます。こういった場合、この「男ウケ(女ウケ)をするために買った服」を手放すには、そういった自分の不足感と向き合わなくてはならないのです。それはとてもしんどく、できればやりたくない行為です。なぜなら「自分は不足した存在だ」という信念を持っている自分と向き合わなくてはいけないからです。だから多くの人はそういった事に向き合いたくないので、とりあえずまだ着れるから…、もったいないから…と言って持ちづづけることを選択していくのです。

こういった自分の不足感と向き合わなくても物を手放すこと自体は可能です。しかしこの不足感と向き合わないと、この人は永遠に「不足感から物を得る」という行為から抜け出すことが出来ずに、同じことを繰り返します。断捨離が精神論を多く含んでいる理由は、「物を通して自分を見る行為」だから、「物に張り付かせた自分の感情や信念と向き合わざるを得ない行為」だからなのでしょう。

私達は「物を持つことで豊かになる」というある意味強制めいた思想の元、そんなに欲しいと思ってもいないものを持たされるような生活を送ってきました。「これをすれば素敵になれる」「これをすればモテる」「これをすれば大金持ちになれる」こういった動機の根底はすべてが「自分には足りていない、欠けているから補わなくてはいけない」といった不足感からです。不足感から生まれた動機は、結果それで不足感を解消しても、また次の不足感を無意識に探してしまいます。なぜなら不足感からしか自分の行動の動機を生み出せないからです。いつも自分の始める行為が「不足感」なのであれば、どんなにお金を得ようと、素敵な恋人や友人を作ろうが、健康になろうがあなたは満たされることはないのです。そういった行動の動機で生きてきたのが今までの社会です。多くの人が満たされずしんどい思いで生活している現状が、不足感からの行動が何も生み出さないことの証左になっているのではないでしょうか。

少しずつ、自分にとっていらないと思っているものを処分していきましょう。ポイントは頭で考えるのではなく、「心で感じる」ということです。「仕事で必要だから数合わせに買った」という服は、仕事のために買っただけであり、自分の心の奥底では「本当は着たくない」と言っているかもしれません。ならばその声を尊重してあげましょう。そしてこれからは自分が着たい服を買ってあげましょう。仕事に着ていける自分の気に入る服はこの世界に存在しているはずです。

「自分にはスキルが足りないから勉強しよう」と買った本がそのまま読まずに放置している場合は、本当はその勉強をしたくないからなのかもしれません。ちなみに、不足感から勉強すると大抵知識は入ってきません。入ってくるとしても表層的な知識のみです。この場合「この勉強楽しい!もっと色々知りたい!」という自分の意志の炎を持って勉強している人に対して、永遠に知識の量や質では敵うことはできないでしょう。ならば、あなたが本当に知りたいこと、勉強したいことに自分の炎を燃やすほうがいいのは明らかです。こういった事にいちいち向き合わざるを得ないのが「断捨離」や「物を手放す」ということなのです。

今まで書いてきた内容から指摘できるように、「物を得る」という行為はただ物を得るということだけでなく、「その動機や意図から含まれる自分の感情を得た物に貼り付ける」行為です。「これを得たら自分はもっとモテる」「これを得たらもっと自信がつけるようになる」といった自分のくすぶった重い感情を得た「物」に貼り付けることで、そのことが解消されているかのように錯覚することができる作用が働くのです。しかし、「物」に張り付かせてもその未浄化の感情が無くなるわけではないので、自分の感情を張り付かせた「物」を持ち続けている間は、無意識のうちに自分がその未浄化の感情に縛られている状態になります。それは重くてとても苦しいので、さっさと向き合ってそれに決着つけたほうが実は圧倒的に楽で自分軸の人生の近道になります。一度取り組むと、それは自分の体験となり次に同じようなことが起きても前回よりかは冷静に取り組めるようになります。そして、「物」に自分の未浄化の感情を張り付かせる行為から卒業できるようになり、物や物質的価値観から解放された視点を持って生きることが可能となります。それは多くの人にとって喜びの経験となるでしょう。なぜなら生き方の選択肢が増えるのは自由を意味するからです。

断捨離を続けていくと、自分が本当に欲しい物がわかるようになり、前ほど自分に必要のない買い物が減ってきます。そのことで自分の身の回りや生活スペースがスッキリ軽くなり、より自分軸に沿った生き方の後押しをしてくれるでしょう。自分に必要でないものを手放す→未浄化の感情に決着を付ける→今までの自分と決別する、ということに変容していくことで、断捨離をすることでいつでも誰でも、新しい人生を歩むことができることになるのです。









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