人の役に立つということ

 最近、高校生になったばかりの少年とTwitterでよく話している。

 話す内容は、趣味の話から日ごろの愚痴といった感じで幅広い。

 彼と話している時間は、隠者のように人を避けている生活を送っている私にとって、癒しでもあるし、何より同士と話せてうれしい。


   ※


 彼の愚痴を聞くとき、私は不思議と高校時代の自分に帰ってしまう。

 ひねくれた青年であった私にも、高校生だった時期があることもある。だが、それ以前に、高校に入った当時の私を見ている感じになることが大きい。

「消えてしまいたい」

「もう限界」

「ゆっくり生きたい」

「学校が合わない」

 彼が私や仲のいいフォロワーさんによく話している言葉だ。

 後ろ向きな言葉の羅列。ネガティブなものに耐性が無い人ならば、悶絶してしまいそうになるかもしれない。だが、彼が送ってきたメッセージを見たとき、私は彼と同じぐらいの年ごろの自分を思い出してしまった。同じことを常に考えていたからだ。

 高校1年生のときの私も、彼と同じような感じだった。

 進学時から友達作りに失敗、学校に行けば進路の話ばかり。そして私の苦しみを誰かに話しても、

「いずれはどうにかなる」

「頑張れ!」

 の一点張り。

 正直うんざりした私は、誰かに本当の気持ちを話すことは無くなっていった。

 鬱積する感情。常に感じさせられる劣等感。行き場を無くした絶望感。

 これらが溜まりに溜まった結果、私は発狂してしまった。酷いときには暴れてしまったこともある。

 精神が崩壊しても、私の周りの大人たちは、誰も私の話に耳を傾けようとはしなかった。以前に増して、「頑張れ!」ばかり言う。私が壊れていることには一切見向きもせずに。

 このようなことがあったので、私は「頑張れ!」という言葉そのものが嫌いになった。

 もし仮に現状が「頑張った」だけで良くなるのなら、発狂する以前にはすでに回復しているはずだし、衰退の一途もたどっていない。それに、人の何倍も頑張ったとしても、報われないときは報われない。

 こんな無責任な言葉、どこにもない。

 学校が合わなかったことに関しては、

「我慢しろ」

 の一言で済まされた。

 正直な話、我慢ほど体に毒なことはない気がする。

 人の世を生きていく上ではある程度は必要になるけれど、心の奥底から「無理だ」と思うのなら、我慢なんてしなくていい。わざわざ悲鳴を上げてしまうようなところに、ずっといたら、本当に壊れてしまう。誰にも苦しみが言えないのなら、なおさらそうだろう。

 私には、逃げることすらも許されなかったのだ。

 その結果、何事も一人じゃできない、子どもみたいな、それも他害性付きのダメ人間のできあがり。今ではこれからの人生に酷く絶望している。

 壊れた人間のいち先輩として、彼には私のような人間にはなってもらいたくはない。もしすでに壊れていたとしても、これ以上壊れてほしくない。

 だから私は、彼の愚痴を聞いてあげたり、必要な情報を与えてあげている。絶望のどん底にいるとき、話を聞いてくれる誰かがいるだけでも、とても心強いからだ。

 もちろん「我慢しろ」とか「頑張れ!」なんて言わない。もう頑張れない人間に「頑張れ!」と言っても、余計疲れさせることになるからだ。

 そして、見返りも求めていない。相手にとって、重い負担にしかならないからだ。

 彼の愚痴を聞いていてふと気づいたことがある。

 困っている人を助けることに特別な能力や資格はいらない、ということだ。

 必要なのは、聞く力と自分の経験それだけでいい。人を助けるのに、テレパシーや「1級人助け士」みたいな資格は必要ないのだから。

「人を助ける」ということは、どんな人間にもできるということ。このことを胸に刻み、微力ながらも力になれたら、と思いながら今日も1日生きている。

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