生きる意味を考えた結果

私は趣味がない。何か一つのモノにハマったことがない。漫画や映画に興奮する気持ちもわかるし、テレビを見て好きなお笑い芸人もいる。しかし、ずっと夢中にはなれないし、追っかけたりするほど好きにはなれない。

だから、いわゆるオタクと呼ばれる人達が羨ましい。仕事だったり学校だったり、何かを頑張るご褒美がある人達が羨ましい。嫌なことがあった時に、没頭してそんなこと忘れさせてくれる趣味が欲しい。

読書もするし、映画も見るし、カラオケも料理も、なんだって嫌いじゃない。学生時代はとあるスポーツに打ち込んで、人より秀でた結果を出したこともある。しかし、例えばそれらが禁止されたとしても、どうにも心が動かない。やらなくてもよいものでしかない。

何かに夢中になれるって、それも一つの能力のようだ。私にはそれが欠落している。何にも夢中になれず、適当にこなして適当に飽きる。なぜそうなのか。

何かに本気になったことがないから、その楽しみが分からず夢中になれないのだろうか?

いや、違う。本気で打ち込んだことはある。24時間そのことを考えて努力した経験はある。しかし、達成感を得て、その後また続けたいとは思わない。

何かに夢中になって人生を送れる人が羨ましい。「人生は暇つぶしだ」なんて言うけれど、私はまだ暇をつぶせるものを見つけられていない。

他人によってはそれが、家族かもしれないし、夢かもしれない。趣味かもしれないし、恋愛かもしれない。

私は今きっと、恵まれている。現状に不満がないからこそ、こんなことで悩んでいる。しかし、だからって恵まれているのが悪いことみたいに言うのはおかしい。恵まれているに越したことはない。

何かに夢中になれることを見つけること。それが人生の目的なのだろうか。

そうだとすれば、人生のゴールというか、終わった時に魂?的なものが評価されるとしたら、その指標は「どれだけ心が豊かであったか」なのかもしれない。心のふれあい、心の成長、内面的な充実。誰かに愛されていて、誰かに必要とされていること。何かを愛して、何かに愛を注いだこと。

そこまで考えて、萎えた。やっぱり探し続けるしかないのだろうか。自分が愛せる人と出会うこと、仕事と出会うこと、趣味と出会うことに。そして自分を愛するのだ。それが人が生きる目的であり、生まれた意味なのだろうか。

意味なんてないという人がいる。そんなのその人の「意味」に過ぎない。私が他の誰かになることはできないのだから、私が考える「意味」がこの世の全てであり、この世界の「意味」だ。私は私の価値観の中でしか、私の世界でしか生きられないのだから。

そしたら、まずは自分を愛してみよう。自分の見た目、考え方、行動を愛してみよう。自分に夢中になろう。それならできそうな気がする。向き合って、他人事だと思って、興味を持ってみよう。この平凡で変な奴に。

だから書き続けるんだ!とりあえず今日もまた、言葉を書き連ねることができた。

それで良い一日。