夏が終わる前に宇多田ヒカル『真夏の通り雨』の歌詞の美しさについて早口で語るので、とにかく1回だけ落ち着いて話を聞いてほしい
8年前、報道番組で歌う宇多田ヒカルの姿を観た。
TVを通して見る久しぶりの彼女の歌に、小さな興奮と、得も言われぬ感情を抱く自分に気づいた。
あれから8年経って、あの音楽の素晴らしさや美しさを、少しは語れるようになったと思う。
今回は私が愛してやまない曲、宇多田ヒカルの『真夏の通り雨』について、歌詞考察をしながら溢れる思いを語りたい。
夏が来る前に。いやせめて、夏が終わる前に。
まずはこのMVを見てほしい。
胸に残るこの切なさ。
夢のような、しかし楽曲を鮮明に描いたその映像にも心動かされる。
柘植泰人氏が監督を務めたこのミュージックビデオは、MTV最優秀ビデオ賞を受賞している。
それでは、『真夏の通り雨』が生まれる背景からみていきたい。
楽曲制作の背景
『真夏の通り雨』発表の前後の大まかな流れは以下の通り。
・2010年「人間活動」に専念するとして、宇多田ヒカルが音楽活動を休止する。
・2013年8月 母親である藤圭子が亡くなる。
・2015年3月 妊娠期間中、アルバム『Fantôme』の制作に取り掛かる。
・2015年7月 第一子の出産。
・2016年4月 日本テレビ系報道番組「NEWS ZERO」にて『真夏の通り雨』が初公開される。
母親の喪失体験を経て、そして自身のお腹に生命を宿したタイミングにて、
音楽活動復帰にあたって最初の楽曲に『真夏の通り雨』を書き上げている。
当時の宇多田は、亡くなった母親のことをテーマにしつつ、
「歌詞にするには、価値観や言葉の力としてもっと広がるものにしないといけない、個人的なことだけになってはいけない」とし、
「すごく辛い昔の恋愛を思い出している中年の女性。悲恋を思い返してる、救えなかった人を置いてきてしまって罪悪感を感じている女性」というイメージもあったと語っている。
※ウィキペディア「真夏の通り雨」より引用。
つまり、楽曲のモチーフとしては『亡くなった母親(とわたし)』という原体験を起点に、『大切な人との別れ』へと抽象的かつ本質的イメージまで洗練し、歌詞の言葉を選び抜いている。
それを前提に、実際に歌詞をみていこう。
歌詞考察
夢の中で当たり前のように暮らすあなたと私
目をつぶっても、もう戻れない。
そんな、夢うつつの行き来を描いている。
「抱き寄せて」「初めてを刻む」といった言葉で表されるものは、子どもに対する親の愛情とも理解できるし、恋愛関係とも取ることができる。
いずれにせよ、やさしく愛を注がれたこと、その体験が心に残っていることを表現している。
生命(自分の子ども)の誕生と成長に立ち会い、愛情を注ぐ。
親としての気持ちがわかる地点に立った。
時の流れと生命の移ろいを感じる今、新たな環境の中で、ふといなくなってしまったあなたのことを考える。
いつまでこの胸に残り続けるのだろう、この悲しみが。
あなたを失ったことの悲しみや、
当たり前に続くと思っていた、あなたとの未来を渇望する悲しみが、癒えることはあるのだろうか。
家族や友人らとの関わりや暮らしがある。
日々幸せに感ずることもある。
でもどこかに孤独感を感じている。あなたを失ってからの心の空虚感は、少しずつ弱くなっているが、ぽっかり開いた穴は完全に塞がることがない。
「勝てぬ戦」はいろいろと解釈ができるが、「どうしようもないこと」の意と捉えられる。例えば、病気、不倫、不和、死別など。
身を焦がすとは、元来かなわぬ恋に思いに悶える様子を表す表現である。
ここでは、あなたと過ごした当時の思いに重ねて、あなたを失ってからの私の思いも含めて示されているように思う。つまり、以下の二つだ。
①どうしようもなく成就することのなかった、当時の私の思い。
②あなたを失った後も、あなたを強く思う気持ち(どうしようもなく失ってしまったあなたとの日々を求める、かなわぬ願いを持つ私)
そんな思いを整理して悲しみや喪失感から抜け出したいが、完全に忘れてしまっては自分ではなくなってしまう。
なぜなら、あなたや、あなたとのたくさんの出来事、あなたを失ってからの辛ささえも、自分を構成するものの一部だからである。
この喪失と、どのように向き合うのが”正解”なのだろう――
こどもや愛する人、親しい家族と、思いを交わすとき、愛情を向けるとき。
(母親になった)私は、あなたに聞きたいことがいっぱいある。
それは、自分が小さな頃の思い。成長してからの出来事。失ってしまう前後のこと。
これからのこと。新たな家庭のこと。人生のこと。
それらは決して減ることが無く、ただ溢れるばかりである。
生命が芽吹き、誕生する。時は過ぎ行く。
それでもこの気持ちは変わらず、伝えたい。
喪失感や思い出ごとあなたを少しずつ忘れて、
この悲しみから解放されるのを、選ぶこともできなくはない。
(=悲しみから解放されて自由になることを、選ぶ自由がある)
「私はどう向き合えばよいのだろう」と、あなたに残された私は立ち尽くす。
「見送り人の影」とは、そんな喪失体験に向き合う私自身、それをみつめる俯瞰的視点があることを意味する。
愛する人を失った直後の自分は悲しみ、当惑する。それから次第に、「あなたはもういなくなってしまったのだ」と、事実を冷静にみつめ、向き合えるようになってくるのだ。
あなたを失って立ち尽くしている私に、
記憶が突然よみがえる。
その回想は突発的で、激しく、強く、私の心から離れない。
忘れようとしたり、無理やり頭の片隅に追いやろうとしたこともあるけれど、
やはりあなたを愛している。心の真ん中で、今でも強く、深く愛している。
この深い悲しみは、いつか終わるのだろうか。いや、止むことはない。
「降り止まぬ真夏の通り雨」とは、当たり前だと思うことは、当たり前ではない、の意味である。
当たり前とは、「真夏の通り雨は、短時間だけ激しく降るものだからすぐ止む。」という捉え方。
でも、人が突然亡くなってしまうように、人生は当たり前の連続なんかではない。
そして、この切なさや悲しみは、完全に癒えることはない。
降り止まない真夏の通り雨もあるのだ――
あなたと一緒に過ごしている未来は
どんなふうであっただろう。
当然に続くと思っていた未来は、夢でしかなくなってしまったけど、
思い描きながら、
明日へ向かい、ただ日々の暮らしを続けよう。
止まない雨は、抱え続ける悲しみのこと。
癒えない乾きは、心の渇きのこと。その渇望とはつまり、亡くなってしまったあなたとの日常を求める思いだ。
何度も繰り返されるこの歌詞には、いくつもの意味がちりばめられている。
1つには、「あなたを失った悲しみは癒えることがない」こと。
2つ目に、「降り止まぬ真夏の通り雨」と同様、「雨が降り続いているのに乾きが癒えない」という矛盾した表現に込めた、「当たり前だと思うことは、当たり前ではない」こと。
3つ目に、生命の循環、無常といった世の真理。雨とは、(喪失の)悲しみであり、生命の源でもある。生命は慈しみの対象となり、やがて衰え、消える。悲しみ、また新たな命が宿る。そうして、生と死は繰り返される。
さらなる考察と批評
以上が、宇多田ヒカルが”発表する楽曲”として制作した『真夏の通り雨』の歌詞のおおまかな考察となる。
要約すれば、母親を亡くしたことをモチーフに、生命の循環、喪失体験への向き合い方などを、より抽象度を高めつつも美しい言葉で表現したもの。歌詞を詩として単体でみても、とても印象深い作品だ。
だが洗練された彼女の美しい言葉に着目する一方で、『真夏の通り雨』のすべてを理解・解釈しようとするならば、我々はもう少しだけ宇多田ヒカル自身の立場に目を向ける必要がある。
宇多田は、『真夏の通り雨』を含むアルバム『Fantôme』のインタビューにて、「詩を書くことがセラピーのようであった」という旨を語っている。
歌詞考察において、「見送り人の影」という歌詞の俯瞰的視点を指摘した。宇多田ヒカルは、見送り人でもあって、見送り人の影をながめる者でもある。この点について、少し付言したい。
見送り人の影というメタ
大事な人を失った直後、どんなに構えていたとしても、わたしたち人間の感情は大きく揺れる。まるで世界には自分一人しか存在していないかのようで、どこかへ放り投げだされ、時の流れに取り残されてしまったのではないかと思う。
そして死を見届けるやいなや、あらゆる手配をしなければならない。各方面に連絡をし、葬儀をする。周囲に事情を伝え、しばらくしたら自分の日常に復帰し始める。また、いつもと変わらぬ生活にもどる。
心を静めて、理性で喪失に向き合うことができるのはしばらく時が経過してからだろう。人間とは元来そういう生き物だし、社会の構造がそれを後押しする。
宇多田が母親である藤圭子を2013年8月に亡くしてから、この楽曲やアルバムの制作に取り掛かる2015年3月まで、約1年半の間があった。
1年半という期間を経て、妊娠中に制作を始めて母への思いを歌にした宇多田ヒカル。
『真夏の通り雨』の楽曲制作において、宇多田はまるで、”箱庭療法”のクライエント兼セラピストのようであった。
クライエントが箱庭を作るかのように、事実としての母の死、家族の記憶、喪失への向き合い方を言葉にする。
そして、その箱庭を用いてセラピーを行うセラピストのように、それらを内包した”今”をみつめながら、自分や生命をすこしずつわかって、生きていく。
だから、この曲を書いた宇多田ヒカルは見送り人であって、見送り人の影をながめる者なのだ。
※『真夏の通り雨』公開2か月後の宇多田のツイート
母親・藤圭子について
この場で深くを語ることは憚られるが、公にされている情報の範疇で宇多田ヒカルと藤圭子の関係について記しておく。
これは、藤圭子が亡くなった1カ月後のツイートである。
同時期に、宇多田ヒカルの公式サイトにも、「藤圭子の病状が悪化していたことや、現実と妄想の区別が曖昧になり、自身の感情や行動のコントロールを失っていたこと」を発表していた。
(現在はサイトのリニューアルによって閲覧できない。)
晩年、精神障害に苦しんだ藤圭子だが、宇多田ヒカルいわく「誤解されることが多かったが、誰よりもかわいらしい」母親でもあった。そうしてくると、違う視座も開けてくる。
終盤のこの歌詞は、晩年感情の変化がより著しくみられた母親の感情を描いているように思われる。
その瞬間、藤圭子本人にとっては止まない雨の中で、癒えることのない、どうしようもない気持ちや精神状態と向き合っていたのではないだろうか。
そしてそれは彼女に限らず、亡くなってしまう者の側の、終わりを迎えるときの思いでもあるはずだ。
死を前にし、過ぎゆく現在、目の前の未来に思いを馳せる。
行き場のない深い悲しみを覚え、絶望し、後悔し、回想する。
涙する者だけでなく、笑顔ですべてを受け入れて、「仕方がない」と口にする者にも、等しく雨は降り注いでいる。
人は、去る者も、それを見送る者も、同じく止まぬ雨をみつめている。それは、自然の摂理であって、私も、あなたも、その一部なのである。
アーティスト・宇多田ヒカル
2010年に「人間活動」に専念するとして音楽活動の休止に入った宇多田。
当時、公式ブログか何かで読んだ記憶があるのが、「自分一人で切符を買って、電車に乗ってどこかに行くこともできない。そういう、”普通”の生活をしたい。できるようになりたい。」という本人の弁。
普通の生活ではなかった、という意味では、大下英治著『悲しき歌姫 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾』にて以下のような記述がある。
宇多田ヒカルの両親、藤圭子と宇多田照實氏は7回の離婚をしている。幼少期から、宇多田ヒカルの置かれた環境は決して”ふつう”の家庭ではなかった。
ずっと母親の音楽を追いながら、幼少期よりスタジオで過ごすことの多かった宇多田は9歳でボーカリストになり、15歳で作詞作曲した『Automatic』でデビューを果たす。
デビュー当時から、母親と対照的な明るいキャラクターをバラエティー番組などでみせていた宇多田。
「天才」「おもしろい」「キレイ」「テトリスやばい」
宇多田ヒカルの音楽に詳しいファン以外からは、そんな声が多かったように思う。
しかし、決して”ふつう”でない環境で努力を重ねてきた彼女が、この『真夏の通り雨』でやり遂げていることを、その音楽を、私は心から愛し、尊敬してやまない。
宇多田ヒカルが成し得たこと~総括と批評~
音楽的な考察については、”良い”ということはわかるが、専門的なことはプロに委ねる。(筆者はピアノを独学で15年やっているが雰囲気しかわからない。)
わかる範囲で言えば、セブンスコードの響きが夢のようであるとか、途中からのバスドラムが完全に心臓の鼓動のようで、生命の循環という楽曲のテーマにピタリと合っている。ということぐらいである。
ちなみに、バスドラムは宇多田の指示・提案で打ち込みではなく生音である。
ここで、音楽に限らず、『真夏の通り雨』の制作にあたって宇多田が成し得ていることを改めて整理したい。
歌詞については、「個人的なものになりすぎてはいけない」と、抽象的かつ文学的な、ダブルミーニングで美しい引き算の表現。
失ったあなたとの未来を胸に今を生きる無常観。
突然の回想の乱暴さ、夢から覚めたときの心のざわめきといった、心の機微をまっすぐにみつめて言葉を選び取る、たぐいまれな鋭い感受性と語彙力。
また、決して抽象性に寄りすぎることなく喪失へ向き合う生命の姿を描いた、論理的かつ文学的な、哲学と文学の総体。
それらを適切な音に乗せ、構成やアレンジを自分で考える音楽センス。そして、その力強くも繊細な声でなされる表現。
つまりは宇多田ヒカルはアーティストであり、音楽家であり、文学者であり、哲学者である。
ただそれでも、宇多田ヒカルは天才であっても、アーティストであっても、芸能人であっても、ひとりの人間なのである。私と同じ、あなたと同じ、ひとりの人間だ。
そのひとりの人間である彼女が、自身の母親をモチーフにして、ここまで向き合い、赤裸々にさらけ出し、考えあぐね、あらゆる表現を尽くして、歌い上げる。
一方で、音楽以外で見る彼女は明るくて、X(当時はTwitter)でも笑えるツイートをしていた。
宇多田ヒカルがやっていることを冷静に考えながら、『真夏の通り雨』を聴くと、人間とはこうも美しく、まっすぐに生きることができるのか、と心が震え、自然と涙がこぼれる。
もはや、赤ちゃんのキンタマの美しさにビビる、というツイートすら泣けてくる。キンタマに泣かされる。
ここまでを踏まえて、もう一度、最後にミュージックビデオを見てほしい。
あらためて、
宇多田ヒカルのオンガクの美しさにビビる。
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