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能力主義とマジックサークル、または私は如何にしてAPEXを辞めて他ゲーをやり込むようになったか

今年の初め、まだ三が日も終わっていないときにゲームメディアのIGNに掲載されていたある記事のことを、俺は未だに考えてしまう。

横文字と自分語りと社会批判が入り交じったこのコラムは大して話題にもならず、正月のタイムラインに流され沈んでいった。一方で、Apexというタイトルに目を惹かれてやってきた少数の人はもちろんほとんどがこのゲームのプレイヤーとファンであるから、それを批判する記事のコメント欄は当然ながら概ね否定的で荒れ模様だ。

詳しくは当該記事を読んでほしいが、筆者の主張は順を追っておおまかに以下の通りだ。

  • 現実社会は混沌とし、不平等にできている。

  • 現実社会では自身の努力が報われず第三者に台無しにされることがある。

  • (しかし)ゲームはルールを設けることで、現実社会にない公平さを獲得している。

  • ゲームの美点とは、その公平さの下での努力がきっと報われることである。

  • (しかし)Apexで勝つためには、他者の努力を台無しにする必要がある。

  • Apexでは、自分の勝敗が必然か偶然かを知る術がない。

  • Apexの持つこうした特徴は不平等な現実社会と同じであり、ゲームの美点を潰している。

  • 卑怯であることがよしとされるゲームがランク制度を採用し、不完全な能力主義を煽っていることがいやだ。

"バトロワゲー"ではなく"Apex"と限定して批判しているのは若干アンフェアな気もするが、俺はこの主張に大部分で同意する。それと同時に、このコラムは『どうして俺は(面白いはずの)Apexを遊ぶのをやめてしまったのか』という疑問に一つの答えを提示してくれたような気がする。

Apexはマジで面白いという事実

コラムを書いた藤田祥平氏も述べているが、Apexの戦闘は抜群に面白い。俺がこのゲームに熱中していたのは、まだランクマッチがなかった配信開始時からレヴナントが参戦したシーズン4までだと記憶しているが、その時からこのゲームの戦闘は最高だった。

全体的にキルタイムが長いApexにおいて、トラッキングエイムが上手くいって相手の体力がみるみるうちに溶けていく気持ちよさは他のゲームでは得難い格別な体験だ。相手のシールドを割ったとき、ノックダウンさせたときの独特な効果音はもはや一種の電脳麻薬とすら思える。また、端々に至るまで洗練された滑らかな操作感のおかげで、それまでほぼ意識してこなかった"キャラコン"という概念について真剣に考えるようにもなった。

そして、Apexを含むバトロワゲーに共通の面白いところといえば、運要素の大きさだ。例えば、初動で自分が降りた場所にはたまたま強力で扱いやすいスピットファイアがあり、間近に降りた敵プレイヤーの足元にはたまたま貧弱なP2020しかなかったとき。1マガジン10発ちょっとの弱弱しい弾丸を撃ち切った敵が殴りかかってくる悲壮な様子を見ながら、こちらはスピットファイアを掃射する。ありがとう、あなたの運が悪かったおかげでこちらはあっさり1キル獲得、というわけだ。

他にも、迫ってくるリングから這う這うの体で逃げてくる敵パーティをたまたま見かけたのでリング外に押し戻すように戦闘を仕掛け、圧倒的優位で勝利することもよくあった(当時はヒートシールドなんてものはなかった)し、近所でたまたま起こっていた戦闘で疲弊した敵に奇襲を仕掛けて漁夫の利を得るなんてもはや当たり前の戦術だ。もちろんこの構図が逆になり、運が悪いというただそれだけの理由でなすすべなく負けることもしばしばだったわけだが。

ともあれ、このランダム性の強さは試合ごとの展開をとんでもなく多様化し、ローグライク的な中毒性を対戦ゲームに導入することに成功した。

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Apexがとても面白いゲームだということは疑いようのない事実だ。しかしそこには常に『カジュアルに楽しむ限りは』という但し書きがつく。このゲームの面白さの少なくとも半分は、強い不確実性がもたらしているからだ。

ランクの価値は

カジュアルマッチだけを語るならApexが神ゲーなのは間違いない(死を恐れないが故のめちゃくちゃ過ぎる初動はともかくとして)。問題は、ランクマッチをこのゲームに実装し、各プレイヤーの能力を可視化しようとしたことだ。コラムのタイトルにも『競技性の低いゲームがランク制度を採用するとき』とあるように、論点はApexが面白いかどうかではなく、Apexにランクマッチを持ち込んだことの是非を問うことにある。

公式でeスポーツリーグを開催し、毎月のようにインフルエンサー大会が開かれている世界トップクラスの人気FPSを『競技性の低いゲーム』呼ばわりし、ランクマッチやめろ的なことを言われたらそりゃ反感も買うだろうが……ともかく論点はここだ。

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Apexでランクを上げるためには、正々堂々などというお題目は真っ先にかなぐり捨てなければいけない。全力で漁夫の利を狙わなければならないし、自分が逆に漁夫られないように祈り続けなければいけない。得られるランクポイントが順位だけでなくキル数でも変動するため、漁父らないという選択肢はほとんどありえない(進化シールドが常備されている現環境ではなおさらかもしれない)のだ。

こうして、ランクを上げるという行為は必然的に、弱った敵を優先して狙い打ち漁夫の利を得る『卑怯で、怯懦で、恥ずべきもの』になっていく。

この傾向に拍車をかけるのが、先に述べた運要素の大きさだ。

勘違いしないでほしいのだが、俺は(おそらく藤田氏も)ランク制度を採用するゲームから不確定要素をすべて排除しろと言っているのではない。もしそうなったら、ランクマの実装が許されるのは将棋のような二人零和有限確定完全情報ゲームだけになってしまう。

将棋やチェスは厳密には定義に当てはまらないらしい

一定の運要素や不確実性は、ゲームを面白くするためのスパイスとして不可欠だ。ただ、本当にランクマッチで実力を測ろうとするのであれば、ランダム要素はプレイヤー自身の努力で対応できる適度なレベルに抑えられるべきだと言いたいのだ。そうした努力のことを対戦ゲーマーは"立ち回り"と呼び、その巧みさをリスペクトしてきたはずだ。

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それでは、バトロワ、とりわけApexが持つ不確定要素はそのレベルに収まっているだろうか?残念だが、答えは否だ。プレイヤーが戦況をどれだけつぶさに観察し丁寧に立ち回ったところで、降りかかる不運からは逃れられない。ブラッドハウンドが執念深く索敵を繰り返してもなお、デスボックスを漁るその瞬間に遥か彼方からクレーバーがブチ込まれる可能性は十二分にある。

立ち回り、エイム力、武器の選び方といったミクロ的な努力が、フル装備の別パーティがたまたま──そう、本当にたまたま・・・・・・・──通りがかったというマクロ的な運命の巡り合わせにあっさりと蹂躙されてしまうのだ。

運が努力を常に上回っているとき、ただでさえ不確かな”実力”なるものは、より一層曖昧にならざるを得ない。自身の勝敗を分けた理由が運か実力か分からないまま、本気で勝利を喜び、敗北を悔やむことができるだろうか?本質的にランダム性が勝るゲームのランクマッチで、プレイヤーの能力の良し悪しが正しく可視化できるというのだろうか?そうでない場合、ランクマッチはそもそも導入されるべきではなかった・・・・・・・・・・・・・・・・・のではないか?

俺がApexの面白さを理解しながらもランクマッチから手を引き、やり込むのをやめてしまったのは、運という不条理の暴虐を自力では覆せないと悟ってしまったからだ。何をどう努力しても、無限にやってくる別パの横槍を捌ききれるわけがないと諦めてしまったからだ。やり込み勢はそんな人間のことを軟弱者と切って捨てるかもしれないが、改善点がハッキリとしないままではモチベーションを保てなかった。これは、ある種の学習性無力感に近い感覚かもしれない。

なんで現実の話?

藤田氏のコラムでは、Apexのランクマッチの不完全性を現代の能力主義社会の欠陥に重ね合わせる形で論じられている。その主張を理解するためには、能力主義とは何か、それを採用する社会の欠陥とは何かについてある程度事前情報が必要だ。思うに、その説明が欠けていたばかりにこのコラムは多くのゲーマーに『ゲームメディアがいきなり超人気ゲームを批判し、あろうことか読者に説教を垂れてきた』と受け取られてしまい、コメント欄でのプチ炎上に繋がったのではないだろうか。

氏の主張のソースとなっているのはおそらく、共通善の哲学者マイケル・サンデル教授が以下の著書で論じた能力主義に対する批判だ。

能力主義とは”能力がある者が成功する”というシンプルな思想であり、旧時代の身分社会と世襲制に対するアンチテーゼであり、現代においては政治的な右派と左派とを問わず基本的道徳条件としてみなされている。能力主義は努力と能力、そしてその成果を是認し、自己責任を旨とする。そのこと自体は間違っていないように見える。しかしサンデル教授は、今の能力主義は行き過ぎており、政治的に逸脱していると考えている。

現実における能力主義の問題点

エリート主義とも揶揄されるように、能力主義は実際には格差を是正するどころかむしろ拡大する傾向にある。学歴は個人の素性を問わない能力の証だ。貧しい家庭に生まれても、努力次第で東大にだって入れる。けれど、東大入学者の家庭の平均世帯年収は1000万円を超えている……というやつだ。能力のない人間は貧しくなって当たり前だし、富める者の成功は妬まれこそすれ道徳的に間違っているとは思われない。

こうした前提のもと、現代社会の能力主義は既存の格差を当然のものとして固定し、不平等のスパイラルを助長している。

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能力主義のこうした欠陥をさらに加速させている原因の一つはその前提、すなわち”市場は公正である”という新自由主義的な認識自体の誤謬にある。言葉でどれだけ取り繕ったところで、市場は、社会は、世界は、宇宙は、正しくもなければ平等でもない。

たまたま貧しい家庭に生まれたから進学ができず、たまたま不景気に卒業することになったから就職が決まらず、たまたま女性に生まれたから出世が阻まれ、たまたま男性に生まれたからマッチョであることを強要される。NBAアスリートが巨万の富を稼げるのはたまたまバスケットボールが人気スポーツとして評価されているからだし、(eスポーツを含む)マイナー競技者の多くが食うや食わずの生活を送っているのも、やはりそれがたまたま不人気だったからだ。もし世界線がちょっと違っていたら、ペタンクのプロがタイム誌の表紙を飾ることだってできたかもしれない。

でも、そうはならなかった。だから、この話はいつもここで終わってしまう。この社会は倒錯的で、表向きには公正世界を信じているが、裏側では誰もが反吐の出るような不公正を容認しながら生きている。我々が無謬のものとして信じがちな能力主義は、運否天賦の介入に対して全く無力なのだ。

ここで興味深いのは、新自由主義以前の哲学者であるハイエクとロールズについてだ。この二人の政治的立場はほぼ正反対だったが、能力主義の支配を否定するという点では一致していた。能力で個人の価値を決定づけ、実生活における収入や資産に繋げるべきではないという考えは、かつては保守とリベラルを問わず共通だったということだ。それが今や、おかしなことに真逆のベクトルで一致してしまっている。

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"現実はクソゲー"というありふれた表現は、ただの言葉遊びではない。なぜなら、現実がバランス調整の放棄された運任せのクソゲーであることは見ての通りの事実だからだ。この複雑系の世界において成功/失敗の原因が運と実力のどちらなのか突き止めることはほとんど不可能であり、それを神ゲーと呼べるのは一握りの勝者だけである。敗者はすべてを奪われるべき・・だという考えは文字にすると本当に残酷に見えるが、実のところ我々はそれを受け容れてしまっているのだ。

サンデル教授は社会の構成員、なかんずくエリート層が謙虚さHumilityを持ち、自身がいかに恵まれているかを意識すればこの運ゲーが改善されていくと論じている。本当に残念だが、そうなる気配は今のところなさそうだ。

ここまで説明すれば、Apexのランク制度が現実社会と同じ欠陥を抱えていることがなんとなく理解してもらえるだろうか。

魔法円の下の平等

コラムの中で使われていた”マジックサークル”という概念についても触れておきたい。この用語は”遊ぶ人”ホモ・ルーデンスという言葉を生み出した歴史家ヨハン・ホイジンガによって初めて使われ、ゲームデザイナーのケイティ・サレンとエリック・ジマーマンによって発展した。大雑把にいうと、マジックサークルとは”対戦ゲームの成立する範囲”のことを指す。

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『ルーデンス』はコジプロのアイコンキャラの名前でもある

マジックサークルの内側には、現実とは異なるルールを設定できる。勝利条件は相手の頭を先に撃ち抜くことであったり、コンボを決めて相手の体力バーをゼロにすることであったり、相手のネクサスを破壊することであったりと様々だ。

マジックサークルの素晴らしいところは、このルールがどんなプレイヤーにも平等に適用されることだ。性別、人種、思想、宗教その他あらゆる素性を問わず、すべての人間が"プレイヤー"という単位でフェアに競うことが許される。現実では欠陥品にすぎない能力主義がマジックサークル内では正しく機能するし、各プレイヤーの能力を勝敗やランクという形でより公正に評価することだってできる。プレイヤーはその評価を純粋に受け入れ、他者をリスペクトできる。

平等でもなければ公正でもない現実に疲弊し傷ついた人々の魂を癒してくれるマジックサークルは、文字通り現実離れした魔法のように思える。

バトルロイヤルは、しかし、平等が美徳であったはずのマジックサークルの内側に現実社会と同じルールを設定してしまった。運も実力のうち、勝者総取り、弱肉強食。なるほど、Apexの最高ランクが頂点捕食者エーペックスプレデターと呼ばれるわけだ。カジュアルに楽しむ分ならまだしも、ランクマッチはこのマジックサークルの内側を不完全な能力主義が支配する現実社会クソゲーに変えてしまった。

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俺はやめた

とはいえ、それがプレイヤーの魂をどのレベルまで傷つけ、どれほどの痛みを生んでいるかは実際のところ判然としない。それを計れる尺度など、もとよりありえないからだ。コラムが主張するように、傷つけられた魂がプレイヤーからリスペクト精神を奪っているかどうかも、正直分からない。押しも押されもしないApexの人気ぶりを見ていると、そんな悲劇は起こっていないようにも見える。そもそも、ほとんどの人は対戦ゲームの意義についてそこまで深く考えたりしていないのかもしれない……。

何度でも言うが、Apexは本当に面白いゲームだ。それを楽しむ多くのプレイヤーに説教を垂れて冷や水を浴びせるような意図もない。ともかく、俺はやめた。時々思い出したようにApexをカジュアルで遊ぶことはあっても、ランクマッチをやり込むことはきっとない。あらぬ誤解を避けるために具体的なタイトルは挙げないが、俺にとってガチになる意義が感じられるゲームは他にもっとあるからだ。

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