血と泥濘の先に - 『1917 命をかけた伝令』
長回しはしんどい
長回しとは映画の撮影技法の一つだ。大雑把に言うと、シーンの途中で細かいカットを入れず、一つのカメラからの視点を動かし、ワンカットで撮り続けるというやり方だ。一般的なカット割りとは真逆のテクニックでありながら、同じくらい繊細なセンスと地道な努力が求められる。そして、概してしんどい。
そう、長回しはしんどいのだ。構図、台詞、動作その他諸々の要素を、長時間に渡りピッタリと一致させ続けなければいけない。一昨年に大ヒットした『カメラを止めるな!』はその苦労を伝える良い教材だ。ワンカットのゾンビドラマを作ることになった映像作家が、度重なるトラブルに苦しめられつつ、なんとか機転を利かせて対処していく様子は、普段は見過ごされがちな映像制作の苦労を笑いと共に教えてくれる。
長回しによって作られた映像には強い没入感が生まれ、カットで中断されることもないため緊張感が長続きする。優れた長回しには、観客に否応なしにしんどさを押し付ける強さがあるといえる。では、しんどさが重要なジャンルといえば?そう、戦争だ。
しんどい戦場の超しんどい一日
第一次世界大戦真っ只中の1917年のある朝、若きイギリス人兵士のスコフィールドとブレイクにひとつの重要な任務が命じられる。それは一触即発の最前線にいる1600人の味方に、明朝までに作戦中止の命令を届けること。進行する先には罠が張り巡らされており、さらに1600人の中にはブレイクの兄も配属されていたのだ。戦場を駆け抜け、この伝令が間に合わなければ、兄を含めた味方兵士全員が命を落とし、イギリスは戦いに敗北することになる―
刻々とタイムリミットが迫る中、2人の危険かつ困難なミッションが始まる……。(公式サイトより)
第92回アカデミー賞で撮影賞、視覚効果賞、録音賞を獲得した本作は、長回しの極致である"全編ワンカット"で撮影されている。とはいえ、2015年の『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』同様、実際はいくつかの長回しを繋げ合わせた"ワンカット風"だが、かといって不自然さはない。『バードマン』と同じく編集が巧みなこともあるが、本作の物語進行の仕組みがワンカット撮影と非常に相性が良かったのもその大きな要因だ。
上記のあらすじの通り、この映画ではスコフィールドとブレイクの二人が伝令として戦場を駆け抜ける。『刻々とタイムリミットが迫る』と書いてあるが、彼らに実際に与えられている時間は半日足らずだ。そのため、カメラは二人の兵士の行動をほとんどリアルタイムで撮り続け、それはどこかドキュメンタリーのような雰囲気を感じさせる。1917はいわば、密着戦場24時なのだ。
3K過ぎる職場
最短経路を行くため、二人の伝令は戦場における膠着状態の最前線、いわゆる無人地帯(ノーマンズランド)を突っ切ることを余儀なくされる。頭を出す≒死な塹壕戦の真っただ中で他の兵士からは完全に自殺志願者扱いされるが、彼らが伝令をやらなければ大勢が無駄死にし、イギリス軍は負ける。それになにより、コリン・ファースが演じている将軍の命令に背くことなど誰もできない。行くしかないのだ。
どこから狙撃されるか分からない平原、蠅がたかる軍馬の死体、前進を阻む有刺鉄線……。どこもかしこも死の臭いが充満している。スコフィールドとブレイクの二人が駆け抜け、身を屈め、時には這いずりながらもなんとか進んでいく旅路を、カメラは止まらずに追いかけ続ける。
ゲーム的物語展開
泥まみれで匍匐前進する二人の姿を2時間映しっぱなしになるのはリアルかもしれないが、さすがに物語として破綻している。観客としても、彼らが何のために戦っているのか段々と分からなくなってしまうだろう。そのため、この映画はリアルタイム進行しつつも、かなり大胆かつスムーズにロケーションを変化させている。
はじめにイギリス軍の塹壕を出発した彼らはドイツ軍撤退後の塹壕基地の中を進んでいく。内部に仕掛けられた罠に嵌められつつ、命からがら脱出した後は家主のいなくなった小さな農家で大きな悲劇に遭う。その次は合流した別部隊のトラックに相乗りし、未舗装路でスタックするタイヤと格闘する……といった風に、戦場は手を変え品を変えスコフィールドとブレイクを苦しめる。その度に危機的状況を切り抜けるための小目標が生まれ、それと同時に、1600人を擁するデヴォンジャー連隊に攻撃中止を伝えるという大目標が思い出される。
夜戦もあるのは高得点
こうした大目標と小目標の関係は現代的なゲームを思わせる。つまり、ゲーム画面の左上か右上あたりによく出ている、
大目標:デヴォンジャー連隊に攻撃中止を伝える
小目標:ドイツ軍の塹壕から脱出する
こういうToDoリストに近い構造が見られるのだ。俺はかつてゲーム的な映画について記事を書いたが、本作もある意味でゲーム的な映画の一つに連なるだろう。
多くの優れたゲームと同じく、『1917』では小目標のクリアと同時にロケーションが変化するため、物語のテンポや展開が非常に整然としている。戦場の惨たらしいカオスを余さず見せつける一方で、『こいつらどこで何のために何やってんの?』という余計なストレスを観客に与えていないのだ。
伝令から真の男へ、そして救世主へ
主人公である二人の伝令は、見た感じどことなくポプテピピックを思わせる凸凹コンビだ。デヴォンジャー連隊に所属している兄の命がかかっているため冒頭からかなりマジ顔のブレイクに対して、スコフィールドは『厭だなあ死にたくねえなあ……』程度の割とゆるいノリで、隙あらばブリティッシュ小噺をかましている。
POP TEAM EPIC
スコフィールドは戦争で死にたくはないが、その一方で故郷に戻るのをどこか恐れている節がある。両陣営合わせて100万人以上の死傷者を出した、第一次世界大戦で最大の会戦であるソンムの戦いを以前に経験したことで、スコフィールドの心中には穏やかならざる影が差しているのだ。文字通り死ぬほど苦しい思いをしてまでこの任務を遂行しなければいけないのか?諦めてはどうか?しかし逃げ出した先に何がある?……臆病風に吹かれ、惑うのも当然だ。しかし彼もまた、艱難辛苦を乗り越えていくにつれて真の男の顔になっていく。使命を帯びた男の顔だ。
また、1917における聖書的なモチーフについて考察しているブログがあった。興味深い内容なので、是非一読して欲しい。
この考察を踏まえて考えてみると、ラストシーンで大突撃の中を全力疾走するスコフィールドの顔に浮かぶ決死の覚悟は有名な詩篇23篇4節『たとい死の影の谷を歩くとも、私は災いを恐れない』と重なる。とすると、スコフィールドは戦場での受難を通して、まさしくキリスト的な救世主となったといえるだろう。
まとめ
かつて世界を焼いた二つの大戦。どちらも筆舌に尽くしがたい壮絶なものだったことは間違いないが、第1次世界大戦には特に凄惨なイメージが付きまとう。毒ガス、機関銃、塹壕戦といったこの戦争のシンボルのいずれもが、思わず嘆息したくなるような苦痛を想像させるからかもしれない。こと『しんどさ』についてはWW1はWW2を凌いでいる。だからこそ、この戦争をコンテンツとして描く際に求められるのはこの最悪のしんどさの再現に他ならないだろう。『1917』は長回し撮影に始まり、主演二人の必死の演技や要所で差し込まれる重厚なサウンドトラックを駆使し、しんどさに全力で取り組んだ名作だ。
個人的お気に入りポイント(狙撃戦)
少し長い余談 - BF1への回顧
『1917』を観ていると、2016年に発売された"しんどいFPS"『バトルフィールド1』を思い出さずにはいられない。BF1は第一次世界大戦を舞台としたFPSで、未来戦や現代戦が主流だった当時においてかなりひねくれた変化球だった。武器の命中率も装弾数も現代戦が舞台だった前作よりも大幅に弱体化され、FPSの基本中の基本である『敵を撃つ』という行動だけでもかなりの苦労が伴うようになった。また、匍匐前進をすれば銃も服も泥だらけになり撃たれれば血塗れになるといった具合に、グラフィック上の演出も強化された。
WW1を舞台とした期待の新作として発売されたBF1だが、対戦ゲームとしての評価は10点満点中7.5点~8点といったところに留まっている。佳作であっても傑作ではないという感じだ。確かに、プレイしていて楽しくない点の目立つゲームだったかもしれない。マッチングのバランスも悪く、一方的な試合展開になることが多かった。不利なチームに配備される巨大兵器もほとんどは木偶の坊で、大した活躍もしないくせに派手に爆発して散るのがオチだった。そもそも、毒ガスやら爆炎やら発煙筒やらのせいでただでさえ視界不良な戦場で、さらに視界を悪くするガスマスクを着けて撃ち合うのは明らかに快適とは程遠かった。
まれによくあるワンサイドゲーム
だが、少なくともクソしんどいWW1の地獄を再現するという意味では、これらの不自由な点が実は全て意図的なものだったのではないかと思えるほどうまく機能していた。勝っても負けても、これこそWW1だと納得できたのだ。
そして『1917』を観た2020年の今になって俺は思っている。血と泥濘の中を毒づきながら駆けずり回っていたBF1のしんどい戦場に、たまには帰ってみるのもいいかもしれないと……。
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