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Emillynのストーリー(日系ブラジル人を母に持つ友人のファミリーヒストリー)①

1908年以降、多くの日本人が仕事を求めてブラジルに移住した。現在ブラジルは世界最大の日系人の居住地であり、200万人以上の日系人が暮らす(アメリカは約140万人)。
今では、日本人移民が持ち込んだ日本文化がブラジルに深く根付いている。首都サンパウロには日本食屋が立ち並び、スーパーマーケットでは日本の調味料などを購入することも難しくない。柔道や空手等の日本のスポーツも広く親しまれている。
また1980年代半ば以降は、ブラジルから日本に渡った(戻った)日系ブラジル人1世2世も増加。現在でも日本には、ブラジルにルーツを持つ人が多く暮らしている。
私の友人、母を日系ブラジル人3世に持つEmillynもその1人だ。

彼女の家族がブラジルと接点を初めて持ったのは、彼女の曾祖母の代まで遡る。奄美出身の彼女が仕事を求め、ブラジルに渡ったのが最初だ。「行けば農場ができている。」と聞いていたが実際に行ってみると、聞いていた話と違い、そこの農場はなく、苦労して農地をつくるところから始めたという。
時期はおそらく1900年〜1920年(Emillynから詳しい年代は聞けなかった)。多くの日本人がブラジルに移住し、コーヒーなどを生産する農場の雇用農民として農業労働に従事した時代だ。

その後、ブラジルで曾祖母はEmillynの曾祖父にあたる人物と出会い、結婚、Emillynの祖母にあたる人物が生まれる(ちなみにこの曾祖父のことは謎につつまれており、詳しいことは分からないという)。
祖母はそのままブラジルの田舎街で育ち、同じく日系ブラジル人の男性と結婚。その後その男性とは離婚、そしてEmillynの祖父にあたる人物と結婚する。この時、互いの連れ子が6人ずついたという。この祖父も日系ブラジル人で、元は鹿児島出身だそうだ。

ほどなく、ふたりの間にEmillynの母にあたる人物が誕生。そのままブラジルで育つが19歳の時、彼女は出稼ぎのため日本の群馬県に渡る。ちなみに群馬県は日本有数のブラジル人コミュニティがある土地だ。特に大泉町が有名。
Emillynの母が日本に渡ったあと、彼女は日系ブラジル人の男性と出会い、結婚。Emillynが生まれる。その後ふたりは離婚し、Emillynの母は別の日系ブラジル人の男性と再婚。家族はその後、愛知県に引っ越し(製造業の多い愛知県も日系ブラジル人の多く住む土地)、現在に至る。

以上がおおまかではあるが、Emillynのファミリーヒストリーだ。
今でもブラジルにはいとこなど親族は多く住んでいて、連絡を取ることもあるという。

To be continued!!

※以下、ファミリーヒストリーを聞くなかで文化や食べ物について箇条書きで記す。
・日本でブラジル料理といえばシュラスコが有名だが、「フェジョン」「フェイジョアーダ」も代表的なブラジル料理。日本でいう味噌汁的なもの。伝統の味。
・家庭で食べる料理は昔はブラジル料理が多かったという。メインはブラジル料理で、サブは日本の料理、という感じ。
・Emillynは、普段食べる料理は普通の日本の料理だが、たまに母の作るフェイジョアーダを冷凍して持って帰るそうだ。
・生活のスタイルはほとんど日本のスタイルだが、お正月は今でもブラジルスタイル。
・Emillynの母は日本に住んで20年以上になるが、日本語はまだわからないところもあるという(ブラジルで話されている言語はポルトガル語)。難解な漢字が使われた書類等はEmillynだ手伝うこともあるそうだ。

【参考】

https://www.ndl.go.jp/brasil/

https://www.jica.go.jp/jomm/outline/ku57pq00000lx4th-att/list_01.pdf

https://cenb.org.br/articles/display/86

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B3%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%AB%E4%BA%BA


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