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亡き最愛の人が他人との間に作った子の世話をさせられる実話

『讃岐典侍日記』(さぬきのすけにっき)

典侍は帝の秘書という感じでしょうか。
書いたのは藤原長子(ちょうし)。讃岐守(さぬきのかみ)藤原顕綱(あきつな)の娘だから讃岐典侍。別に四国が舞台になっているわけではありません。

土佐、蜻蛉、紫式部、更級、和泉式部と、数々日記がある中で、『讃岐典侍日記』は今ひとつ埋もれがちですが(高校の教科書にもあまり載っていない)……
もっと読まれて、知られるべき。
せつなくて、やるせない。
ページを繰るほどに涙誘われる日記です。

長子は第73代天皇・堀河帝に仕え、寵愛を受けていました。
8歳で即位した堀河帝は、父の白河帝(半世紀にわたり院政を独占)とは対照的に温厚で、実際の政治は白河上皇が取り仕切っているため、文学や音楽に熱心だったと伝わっています。
若き堀河帝にかわいがられた作者。そのさなか、帝はまだ二十代の若さで病に倒れてしまいます。懸命に看病する長子。帝の発病から崩御までが日記の上巻です。

喪に服し、里で悲しみにくれる作者。そのもとへ、新しく即位する鳥羽帝に仕えよと、白河法皇(上皇が仏門に入ると法皇)から院宣(いんぜん)が下ります。

鳥羽帝はこのとき5歳。
何もわからない幼帝の世話役には、先帝に心から尽くしていた讃岐典侍のようなひとがふさわしいというわけです。

鳥羽帝は堀河帝の第一皇子。長子との子ではありません。白河上皇がすすめた藤原実季(さねすえ)の娘・苡子(いし)との間にもうけた子。幼い頃から気性が激しかったとか。性格は祖父(上皇)似ですね。

院宣、院からのご命令ですから。
作者は我が身のつらさを嘆きながら、出仕します。
年が明けて6歳(当時は数え年)のお子様帝に、作者は奉仕します。
しかし、
最愛のひとを亡くした悲しみが癒えない作者にとって、この状況は……きつ過ぎるでしょう。どこを案内しても、堀河帝との思い出が鮮明に蘇るんですよ。

あのとき堀河帝はこうだった、ああだった……と、作者が過去にすがっていると、やんちゃな鳥羽帝が「われ抱きて、障子の絵見せよ」「いでいで(ねぇ、ねぇ)」などと、現実に引き戻す……のが下巻。なんとも残酷な境遇です。

作者の心は壊れてゆき、そして……

大学の受験でも時折出ますから、古文が必要な人は、あらすじだけでもおさえておいてほしい。回想する場面が多いので、背景を知らずに問題を解くと、苦戦すること必至です。

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