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【映画随筆#3】華麗なるギャツビー

今回は、バズ・ラーマン監督の ”The Great Gatsby”を鑑賞し、感じたことを記事にしていきます。(注)本稿はネタバレを含みます。

作品名:華麗なるギャツビー
公開日:2013年5月10日(日本では同年6月14日)
出演:レオナルド・ディカプリオ、トピー・マグワイア等

この映画を選んだ背景の一つに、デカ様が出演しているというのもあるくらいにレオナルド・デカプリオの貫禄と演技力が好きです。多く語ることはできませんが、デカプリオが出演した作品はどれも味わい深く、自分としては一番”洋画見てる感”が立ちおこる名俳優だと考えています。

さて、本作を見て感じたこととしては、この映画のテーマの面白さというものが挙げられるかと思います。やはり私は世界や人間にある二面性、多面性に関心があり、そのアンバランスな状態が一貫している社会、不安定が常態である社会には面白さを感じるのですが、この作品もまさに、それをある意味ではテーマとして取り上げているように感じ、のめり込んでいた自分がいます。
人間は不安定であり、その不安定さ、曖昧さが人間を形作っているのです。ニックもトムもデイジーも、不安定な自分を持ちながら、それを受け入れて進んでいるのです。それに対し、ギャツビーだけは、不安定な側面などなく、一貫して、デイジーに捧げることを人生の軸として生きていたことが分かります。これは一見素晴らしいことであり、人間の理想ともいえましょう。自分の中で人生の意味を確立して、それに謀反する姿勢を自分が許さない、生き様です。しかし、そこにあるのは強烈な自己肯定感と考えることもできるのです。というのも、ギャツビーはデイジーに恋したときになって初めて「人生の軸」ができたといってもよいと思うからです。恋愛、運命などという不確定な要素に対し、もちろん人生を捧げるかの如くおぼれてゆく人もいると思いますが、ギャツビーほど多くの時間と労力を、どうしてそこまで投資できるのか、不思議に思いませんか。私はその判断の下支えとして、ギャツビーに内在する”自己特別感、自己肯定感”があると思います。実は誰でも通りうる初恋という現象を、同じ体験として語るのではなく、「”この私”をここまで乱してくる、この女性(=デイジー)はなにか特別であるに違いない、この特別な人に人生を捧げることが、自分の役割だ」と感じるのです。言い換えれば、世間一般の感覚には程遠い現象として、自分の初恋を語ってしまっているのです。多くの人は、その恋を経験しつつも振ったり振られたりする中で人間の不安定さやいい加減さ(例えば愛すると決めたのにほかの人が気になる自分がいたり、振られてあんなにショックなのに、立ち直って新たな恋に夢中になっている自分がいたり等)と出くわし、そのいい加減な自分を許し、謳歌するのです。でもそれをギャツビーは許しません。自分という人間が、少なくともそのようにいい加減になることは認めてはいけないからです。いかにデイジーという人間が変数であり、その立場でどんな女性が当てはまることが可能であったとしても(そして多くの場合恋愛は恣意的であるのに)、自分の感情というものが固定数である以上、自分が選んだデイジーという固定値は変えられないのです。だから、ギャツビーのような純粋な基軸を持って生きてないデイジーという存在でも愛せるのです。自分に人生を捧げる気のないデイジーという存在でも愛せるのです。不釣り合いで、自分と比べてもいい加減で、自分と全然違う価値観で生きているデイジーという存在でも愛すしかないのです。それが自分の軸だから、という生き様に従って。
なので、最後にギャツビーが殺されたことに対し、悲しむべきか、喜ぶべきか、一視聴者としても迷う部分があるのです。それは、彼はあのまま人生を遂げることによって、自分という存在の破壊に関しては免れることができたからです。これは偏見かもしれませんが、ギャツビーの生き方って、やはりまともな漢なら、一度は通ると思う道であり、その生き方を遂げることが当たり前と思う節があるのです。しかし、自分の感情に甘えたり自分という人間が思っていたような仕組みでないことを知ると、一気にこの生き様は瓦解します。先ほど軽く上げた例のように、失恋しても立ち直ってしまう人って多いと思います。それを人はいろんな解釈をしますが、(そんなにそもそも好きではなかった、若かった、自分って意外と丈夫だった、一途じゃなかったのかな等)そのような状況と直面して、人はどんどん自分の信念や生きざまに怠惰になっていくと思います。補足ですが、この現象自体何も悪いことではないのです。むしろ理想を一度諦めて、その枠内で楽しもうとしている謙虚で人間らしい姿勢と言えます。理想だけに生きる人間はやや傲慢になりがちです。ギャツビーも例外ではなく、”過去は変えられる”と、自分の人生観に倣って豪語していました。しかしそれは空虚な主張であったことが、映画でも語られていましたね。とはいえ、ギャツビーは理想に生き続け、自分をあきらめるという現実に直面せずに済んだのです。自分は特別だという感情を持ったまま、自分の人生が劇的なものであり、ロマンティックな運命が存在していることを疑わずに人生を終えることができたのです。死は悲しいものですが、この生き様を通して死ぬという姿はかっこよかったのではないかと思います。
この作品をより重厚な作りに仕立てたのは、ニック目線で世界が語られたこのにも起因していると思います。ニックはしばし自身のアンビバレンスをニューヨークで感じていて、自分の理想と現実の乖離を直観できる人であったのです。先ほどで言うところの自分のいい加減さに直面する瞬間にギャツビーと出会ったのです。そしてその理想に生きる姿を見ながらも、自分以外の人間にその純粋さの尊さがかけらも伝わっていないことに絶望し、病になってしまったという背景が伺えます。ただニックという人間もまた、自分が失望した凡人と同じ凡人であることを、自覚しているのだと思います。これは私の深読みですが、映画の最後に、ニックの執筆したギャツビーの人生についての文章の題として”the great”を付け加えたシーンがあります。これは、ニック自身もこのギャツビーの人生をエンタメ化しようとしていたり、ギャツビーが凡人ではないことを餌に人様に披露しようとする魂胆があることを自覚し、自分とは距離を置く=”自分もわかった気でいたけど、あなたとは違う、私は凡人だ”という意味合いも含めて、"the great"の冠詞を付け加えたのだと感じてしまいました。なので、露骨に凡人である周りの人間たちと、純粋に愛に生きるギャツビーと、そのはざまで、ギャツビーだけを評価する姿勢(君だけが価値あるよというニックのセリフにもあるように)を身に着けたつもりでいながらも、結局は凡人側に属していることを自覚したニックの構造だから、この映画は深さを演出できているのだと、強く思いました。

ギャツビー自体も長生きしたら、どうなっていたのか分からないですが、理想に生きることをフィクションの王道として捉えつつも現実が邪魔してくる感じはいろいろ考えさせられて、面白かったです。映画にどんどんハマりそうです。ロマンス多めですが、アクションやミステリーも今後見ていきたいと思いました。では次回の記事で。

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