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怒ること 本来は怒ることに理由なんてない

電車内で座っている初老の人の足が当たったということで、20代の男の人が大声で怒鳴っていた


謝るのだったら、きちんと謝れ

その顔はきちんと謝っていない

そもそも足を組むべきでない


などなど・・・


時たま出くわす光景だ

さて、この若い男の人の目には何が映っているのだろう

  
靴が足に当たった

よく見ると汚い靴だ

相手は気がついていない

気がついていない振りをしているのだろう

腹が立ってきた

注意をしてやろう

注意をしても、悪びれた様子なく謝った

バカにされた

謝る時はもっときちんと謝るべきだ

謝った後、また新聞を読み続けたのは、きっと私をバカにしている証拠だ

ますます腹が立ってきた



たぶん、こんなところだろう

これらのことばを見て分かると思うが、
この男の人は座っている初老の人に、
自分が思ったことを被せて見ているだけなのだ
つまり、自分の思考を相手に被せて、それを事実だと思い込んでいるだけである

ここで言う事実とはもちろん実体のことである
実体とは、誰の目にも明らかなもので、
第三者からも観察や計測できるもののことをいう

事実だけを見ると、


座っている初老の人の足が自分に当たった

その人は気がついていない



ただ、それだけだ

これが怒る理由なのだろうか

なぜ怒るのだろうか

その男の人は、足に何かが触れる(当たる)たびに同じ勢いで怒るのだろうか

もし、初老の人でなく、幼児や高齢者、やくざ、とても美人であったとしたら、
同じように怒るのだろうか

その人や周りの乗客が頼んだわけでもないのに、
どうしてこの男の人は怒るのだろうか

何に対して怒っているのだろう

怒らなければいけない理由は何だったのだろうか

きっと、あなたは怒るか怒らないかは状況による、と答えるだろう

状況による、というならば、状況によって怒る怒らないは選択できるということになる
では、どうしてこの人は怒ることを選択したのだろうか、とまた先ほどの話に戻って堂々巡りになる

そうは言っても、足に何かが触れた(当たった)という事実は変わりない

結局、事実に対して怒っているのではなく、
その事実を解釈した自分の思考(無視された、本心で謝っていない、反省がない、足を組むべきでないなど)を見て怒っているだけなののだ


自作自演をしているだけである


私たちは人の心なんて分からない
心の中身なんて、誰も観察することなんてできない

分からないからこそ、推測しようとする

しかしその推測すら「私の推測」であって、
決して相手の心を直接観察した結果ではない

にもかかわらず、自分の推測がいつの間にか「事実」となって、
さらに次の思考や感情を呼び起こしてしまう

しかも、思考は「正しさ」を証明するために、
次々に「証拠」を挙げてくるのであるが、
それらすらも思考であることが分からず「事実」であると信じ続け、
もっと腹を立ててしまう

妄想の上に妄想が重なるようなものだ

そして、もっと深い深い妄想と世界に入ってゆく

このように、人の心は分からないし、分かったように思えても、
それはあくまでも私の思考であることを理解すると、
人間関係はとても楽になる

なぜなら、人の心を分かろう、理解しようという
絶対に無理なことをする必要もないし、
それによって悩むことすらなくなるのだから

私たちは妄想にとらわれて自作自演する

これは怒りだけではなく、不安や劣等感、恐怖、差別にも言えることである


出来事をきっかけに、さまざまな思考を実体と錯覚し、
それに見合った感情を自分で出しているだけなのだ

これらは全部自分がしていることなのである

普通は、

実体→実体を思考が解釈する(妄想の世界に入る)→妄想を実体だと錯覚する→自分が妄想を創り出しているとは思わず、他人や社会からもたらされるものと信じる→妄想が創り出した「実体」(実は妄想)をもとにそれに見合う感情や身体感覚を創り出す→…

と繰り返してゆく自作自演をしているだけなのだ

一方、こんなこともできるだろう

実体→実体を思考が解釈する(妄想の世界に入る)→妄想を妄想だと知る→妄想を創り出しているのは自分だと知る→妄想は実体、つまり実体ではないため、妄想にとらわれない行動をとる(妄想を持ったまま妄想に反応しない)

のような行動をすることもできる

実体を思考が解釈してしまうのは人間であるならば、
誰しも防ぐことはできない

 上の流れ図を見ても分かるように、
前者と後者の違いはその後のプロセスにある

それは、妄想を実体と錯覚するか、
妄想を妄想として扱うかなのである

これには根本的な違いがある

私たちはもともと意味のないものに思考を貼り付け、
それが意味のあるものであるかのようにいとも簡単に信じる

モノを見ているのではなく、
そのモノを通じて自分の思考を見ているのであるが、
それを簡単に忘れてしまう

電車で怒っていた男の人の目は、
その初老の人を見ているのではなく、
自分の思考を見て怒っているだけなのだ

私たちが怒っている時のことを考えてみよう


出来事が過ぎ去ってもなお、腹立てているだろう
目の前にはその出来事がなくても怒っているだろう
目の前にその出来事がないのに一体何に対して怒っているのだろうか


それは、

頭の中の妄想(出来事を思い出して)に対して怒っているだけなのだ


その人にはその出来事があたかも「今、ここ」にあるかのように感じているのだろうが、
他人からは全く見ることができない

妄想に反応しているのだ

統合失調症の幻覚・幻聴に対する反応と全く同じである


思考は、実体ではなく、実体に対するその人の「解釈」にしか過ぎない
解釈ですから、いかようにも変化する


~にちがいない

きっとそうだ

~のはずだ


こんなことばが、いつの間にか思考を実体のように見せかける

私たちは「~にちがいない」「きっとそうだ」「~のはずだ」ということばを思い込みのことば、
つまり、思考をそのまま事実として信じ込んでしまっているサインとして捉える

これらのことばが口から出る時には、
フュージョン(思考と事実が融合してしまって思考が事実としてみえる状態)していることが分かるのである

このように、実体のようになったものを実体と信じ、
場合によってはその思考をさらに「評価」「理由づけ」という思考で塗り固める
そして、いつの間にか妄想であるはずの思考が、
本人の頭の中だけで「確固たる実体のように」なるのである

そうなると、頭の中で「確固たる実体のようになった」ものから、
世界を眺めるのである
しかし、どんなに「確固たる実体のようになった」ものといっても、
妄想にしか過ぎない
妄想というフィルターを通じて見た世界を実体だと錯覚しているだけなのだ


自分のフィルターで見ていること

そのフィルターは世界そのものを表しているものではないこと

自分のフィルターが他人にとっても同じものと頑なに信じていること


これらを忘れてしまっているか、分からなくなってしまうのだ

このようにして振り返ってみると、
自分の妄想に自分が振り回されていることがはっきりとするだろう


自分の妄想によって自作自演しているだけなのだ


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