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映画感想_「福田村事件」100年前本当に起こった話

こんばんは。今日もお疲れ様でございます。今日は友人と映画「福田村事件」を見てきたのでその感想を書きます。
考察ではないので、思想が強いのはご了承くださいね。


長崎市内在住の方、本日11/10~11/16の期間、長崎セントラル劇場で上映されますゆえ、ぜひとも足をお運びくださいませ!

【あらすじ】
1923年9月1日11時58分、関東大地震が発生した。そのわずか5日後の9月6日のこと。千葉県東葛飾郡福田村に住む自警団を含む100人以上の村人たちにより、利根川沿いで香川から訪れた薬売りの行商団15人の内、幼児や妊婦を含む9人が殺された。行商団は、讃岐弁で話していたことで朝鮮人と疑われ殺害されたのだ。逮捕されたのは自警団員8人。逮捕者は実刑になったものの、大正天皇の死去に関連する恩赦ですぐに釈放された…。これが100年の間、歴史の闇に葬られていた『福田村事件』だ。行き交う情報に惑わされ生存への不安や恐怖に煽られたとき、集団心理は加速し、群衆は暴走する。これは単なる過去の事件では終われない、今を生きる私たちの物語。

映画『福田村事件』公式サイトより

公開されて2か月後とかなり時間差がありますが、ぜひ感想を残しておこうと思い書いております。ネタバレ含む、というか見た人しか分からないような感想になっておりますので、覚悟を決めてお読みください。


「悲劇」に向かって行く怖さ

映画を見る前から「この事件で幼児や妊婦を含む9人が殺された」「行商団が朝鮮人と疑われ殺害された」とは把握していたので、各場面でだんだんと最後の事件に近づいていく予感を感じてしまい、とても怖かった。
いつもより多く買った朝鮮飴、お礼にもらった上等な扇子。
声の大きい「日本軍兵」のステレオタイプ的な男・長谷川に扇動される村の雰囲気。
「やもめ」となった咲江と船頭の倉蔵が、村でだんだん蔑まれ始める。
朝鮮人と部落から来た自分達の境遇をかさねる行商団員たち。
他にも、震災によって広まった「野蛮な鮮人」のうわさによって、精神的に追い詰められた村人たちの焦りや不安が、終盤に一気に高まりを見せていく。最後の虐殺の場面は、目をそむけたくなるほど不幸が重なりあって、苦しくなった。
「悲劇」に向かって行く怖さ、それはこの物語のなかを生きているときには気付くことができず、観客として達観してみることができて初めて感じる怖さなんだろう。そして、そこに向かって行くまでの不安の種に気付けるのも、観客だからだろう。

あの場に私がいたら、いったい誰だったろうか?

映画や舞台を見ると毎回考えてしまうのが「登場人物の中で一番自分に近いと思う人はだれ?」ってこと。今回も考えた。私はきっと、福田村の主婦たちだったんじゃないかな、と思ってる。
主婦たちは、主に村の行事の支度を任されており、一緒に料理や場所の飾りつけなどをする。それぞれが各家庭の事情を抱えながら、一緒にいる間は噂話をしたり励まし合ったり。
特に、最終最後、行商団の人たちが殺されていく場面で結局何もできなかった主婦たちがいたわけだが、いま世の中で起きている色々な出来事に対して自分がとっている態度は彼女たちと同じだ…と感じた。
自警団の男たち、行商人たち、彼らをかばった澤田夫婦や倉蔵、咲江、葛藤する村長、新聞記者。そのどれにもなれない、どれにもならないことで、責任を逃れたい、そう思ってしまう自分もいる。
私に彼女たちを責める権利はないし、誰が悪い正しいという話ではない。そうなのだけど、作中の主婦たちと自分を重ね合わせたことで、今の自分を顧みるべきだな、と考えさせられた。

殺す人の顔、殺される人の顔

暗い気持ちになるが、やはり映画の後思い出してしまうのが、幼児2人を刺し殺した青年の表情。無表情に近い、ただなにかに憑かれたかのように鋭い眼光、強い使命感みたいなものも感じられた。「止められない」と、見ている私も思ってしまうほど、取り返しのつかない精神状態に彼自身も追い詰められていたのだ、と分かった。
彼が二人を殺す前、行商団を率いていた沼部が脳天に斧を振り下ろされ死んでしまうが、その時殺した女性の表情も、真顔だった。「無」に近いけれど、消して自然ではない、追い詰められた人間の表情がとにかく怖い。
その後、倒れた沼田に泣きつく妻、彼女を殺す青年、死んだ母に泣きつく子どもたち、彼らを殺す青年。表に出てくる感情の緩急が非常に強いが、出ていない心情が伝わってくる。
怒りか、怖れか、その感情が極限まで達したときに生まれる使命感は、ほとんど本能のように人を突き動かしてしまう。人間の恐ろしさを巧みに描いている。
上に書いた「無」の顔とは別で、感情的に行商団を殺す人たちの顔も写される。

「言葉にしない」いやらしさ

澤田夫婦は、言わなさすぎる。私には汲み取れていないことが多いだろうなあ…くそ、人生経験。
経験不足なりに考えたことを書きます。智一が韓国の境界で起こった虐殺に加担した過去を告白した後、静子が言った「ひどいことをしたのね、私にも」という言葉についてです。
このひどいことをしたのねって、この事実を妻である自分に4年間も言わなかったこと、理由も明かさずに肉体的な関係を拒まれてきたことの苦痛を考えてもらえていなかったこと、そんな秘密を抱えながら村まで連れてきたことなど、それは色々意味が込められているのだろうな…と考えました。みなさんは、どう思います?
これに限らず、福田村事件の中には「言葉にしない」ことがたっっっっくさんあるように感じた。
言葉にしないが行動で示す、人に見られないところで表現する、的な。
いやらしい、いやらしすぎる。それがまたリアルだから、よけいいやらし
い。

一人一人に名前がある

場所はよくわからないが、警察署?かどこかで男性とノブ(信義)が話す場面。殺された9人と生まれるはずだった望(のぞみ・のぞむ)に、それぞれ名前があったのだと訴える。
私はこの場面、「私たちは同じ人間なんだ」と訴えているのだと思った。もしかしたらそう言っていたかもしれない。
この映画、思い返すと、よく「名前」についての表象がある。

  • 静子が、自分が村の人たちに朝鮮人じゃないかと噂されていると教えられた時、「自分の名前は韓国語(朝鮮語)では○○(忘れた)という」と説明するところ。ここからは、静子が朝鮮で生きていた頃を懐かしむ、ある種の朝鮮人としてのアイデンティティが少しあることが感じられる。

  • 朝鮮飴を売っていた少女が、自警団に殺される間際に自分の名前を叫ぶ場面。朝鮮人としての自分の名前を知らしめようとする行動から、自分の国に対する思いと潔さを感じる。

  • 村長・田向と自警団副団長?・長谷川が、それぞれを役職で呼び合うよう指摘し合う場面。その時は必ず、役人と軍人のあいだのイデオロギーが強調され、人間的なつながりが切り捨てられようとする。

  • 疑われた行商団が歴代天皇の名前を言わされる場面。天皇の名前を神武から読み上げる、つまり名前を知っているということが日本人の証明として使われるほど、天皇の名前は重要であるしみんな知っているものだという認識がある。またそれと対比的に、穢多や鮮人と呼ばれた人たちの名前は、誰にも知られる機会がなく、忘れ去られてしまう。

私たちが一生の中でその人の名前を知れる相手はごく一部だ。直接相手の名前を聞けることも少ない。でも確かにこの世に名前のない人などいない。名前はある意味、その人の人生の証でもあるんだな。不思議なことに、歴史上勝利して来た支配者たちの名前は公教育の中で必ず教えられるし、覚えることが義務付けられてもいる。


民主主義は、間違ってしまうかもしれない

以前読んだ本(『反教育論』という本だったような…)で、知性は、感情と理性が合わさったものだと書いてあった。福田村事件を見て、いかに知性をもって最善の判断を下すことが難しいのか、突きつけられたように思う。感情を過小評価することも、理性を過大評価することもすべきではないと、個人的には考えているので、どちらも同じくらい大切にできるように努めなければならないのだ、と言いたい。建前だが言わなければならないと思う。
作中、新聞記者の恩田が、正しいと判断できないことは新聞に書くべきではない、という事を部長に訴えるシーンがあった。そこを見て、私は「十二人怒れる男たち」という作品を思い出した。機会があれば、映画版や舞台劇で見ていただきたい。すこしだけあらすじを話そう。作中、12人のアメリカの陪審員たちが、殺人事件の容疑者である17歳の少年の判決について話し合う。11人が有罪に手を挙げるのだが、残った1人が「もうすこし考えてみよう」と無罪側につく。彼は、人の命がかかっている、それを陪審員として選ばれた自分達には十分に話し合いをする必要がある、有罪だと言い切れない部分があるのだから有罪とすべきではないと主張して、事件や裁判の検証をし始める…。民主主義とはなにかを考えさせられる作品で、とても好きなんだ。その、無罪を主張した男と、恩田の姿勢が似ていて、ついつい「十二人怒れる男たち」のことを思い出してしまった。
民主主義は、とても大切なことだけれども、時として間違った方向に進んでいく可能性がある。
福田村の人たちの混乱からも、この民主主義の脆さを感じた。脆いけれど、強いものだとも思う。


ちょっとここまで書いたがまだまだ書き足りない。これ以上は明日に支障が出てしまうので、この辺で終わりにします。福田村事件の感想、私の感想に物申す!など、コメントでお待ちしております。

それではここまで読んでくださってありがとうございました。
おやすみなさい!

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