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「電線絵画」展・感想 (後編)

『電線絵画 小林清親から山口晃まで』@練馬区立美術館

(※2021年4月18日に展覧会は終了しています)

明治期〜大正期を中心に現代まで、「電線・電柱のある風景」が描かれた作品のみを展示した変な展覧会の感想の続き。

( 前編はこちら)

展覧会の感想を続ける前に、「電線絵画」展の展示テーマがどのくらい攻めているか、同時期に東京でやっていた他のテーマ展示型美術展(=”個展”ではない展示)と比較してみよう。


・山種美術館「開館55周年記念特別展 百花繚乱 —華麗なる花の世界—」

「花」は古今東西の画家が描きたおして今も飽きることないモチーフの定番だ。だからこそ、出品作が相当良くないとクオリティが微妙になるリスクも。山種の圧巻の所蔵品だからこそ堂々と開催できる、ド直球の展示だ。


・パナソニック汐留美術館「クールベと海」

これは「クールベ展」ではないところがポイントだ。出品作59点のうちクールベは26点で、他はクールベ以外の「海」モチーフの作品。クールベを看板にして、さらにモチーフを統一することで、多くの作品の良さを楽しめる。これは「山」「江戸」「猫」など他の定番モチーフでもよく使われているワザだ。


・東京国立近代美術館「あやしい絵展」

近美の企画展は、過去の名品・所蔵品を現代に身近なテーマで編集するのが絶妙にうまい。以前は「眠り展」「窓展」なんかも行っていた。

その他、「時代」「国・地域」「地元」などに絞った多くのテーマ展示があるのはよく知られている通り。

このようにストレートから変化球まで、多彩な展示構成のテクニックがあるなかで、練馬区美は「電線」で戦っているのだ。

誰も見たことのない魔球を投げている。


3.考察 〜「描かれなかった電柱」が訴えること

さて、展示の感想に戻ろう。

欧米では電線は早期に地下に埋められたため、電柱が立っている風景がほとんどない。ということは「電線絵画」は、ほぼ日本にしかない。

この展覧会を中心になって企画した加藤陽介さんという学芸員の方はこう言っている。

(電線絵画は、)日本独自の、産業革命に起因したガラパゴス的な近代美術史ということになるのである。(同展図録より抜粋)

加藤さんは、電線絵画を「日本固有種、あるいは東京固有種」という表現もしている。言わわれてみればたしかにそうで、なかなかすごいジャンルを見つけてきたと思う。

では、電線・電柱は、日本の絵画のなかにどう描かれてきたのか?

本展で示された、その答えは......

「描かれたり、描かれなかったりしていた」

という、さらに奇妙なものであった。

この2作を見比べてほしい。

(以下、紹介する作品は表記がないかぎり、「電線絵画展」の出品作です)

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(↑)川瀬巴水《浜町河岸》 (1925・大正14年)

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(↑)吉田博《東京拾二題 隅田川》 (1926・大正15年)

ともに大正期の、隅田川の眺め。

吉田博(下の方の絵)に、電柱が描かれていないのがわかるだろうか。

吉田の別の作品も見てみる。

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吉田博《東京拾二題 神楽坂通 雨後の夜》(1929・昭和4年)※出典:東京富士美術館公式サイト

神楽坂。街灯はあるが電柱がない。空にも電線の影はない。

当時の神楽坂の写真を見ると......

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明治後期〜大正期の神楽坂 (出典:三井住友トラスト

電柱、めっちゃあった。

ということは、吉田は電柱を無視したか、電柱が立っていない場所を選んで描いた可能性が高い。

理由は? 電柱は風景を汚すジャマなものだと思ったのかもしれないし、他の理由があるのかもしれない。

だが、さすがに描き忘れたとは考えにくい。わざとだ。

吉田は東京風景や日本の名勝をいくつも描いているが、電柱を描き込むことは決してない。日本の、東京の風景への理想が反映しているのであろう。(本展図録より抜粋)

電柱という住宅の屋根よりデカい構造物が、時に無視され、なかったものにされている......考えてみればおかしな話だ。

同時にその「おかしさ」は、僕たちにとっては当たり前のことでもある。実際、電柱が省かれた吉田の絵に違和感を持つ人はほとんどいないだろう。

電線・電線は日本の風景のなかで「在るのに無い」という特殊な要素だと言える。

本展には、その電柱にあえて目をつけた作家が集まっている。

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笠井鳳斎《本郷三丁目及同四丁目の図》(1907・明治40年)

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佐伯祐三《下落合風景》(1926・大正15年)

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海老原喜之助《群がる雀》(1935・昭和10年頃)

なかでも飛びぬけてすごかったのはこれ。


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朝井閑右衛門《電線風景》(1950・昭和25年頃)

朝井は「ミスター電線風景」と呼ばれており、本展の目玉作家のひとりだ。

植物の根っこのように太い電線で、空がほとんど見えない。電線の色も実物とだいぶ違う。そしてこの空間の変な感じ......。画面の上半分は電線の交差によって強烈な奥行き感が出ているが、下半分はぜんぜん奥行きがない。電線が空間を歪めて、主役になっている。

気づかれず、無視されてきた電線・電柱の逆襲のようだ。

現代の作家も、数点出品されている。

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阪本トクロウ《呼吸(電線)》2012年

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山口晃《演説電柱》2012年

山口晃は本展図録にも文章を寄せていて、画家の目から見た電柱・電線の良さと愛着を伝えている。

シルエットになった冬枯れの木が背後の水色の空を美しく見せるのと、電線電柱が空を深く青く見せるのは同じことで、空の様に質感を欠いた光は前景に映えるのです。また縦横無尽にはしる電線は美観を損なうどころか、風景を線分し美しいコンポジジションを生み出せます。(...)最上部高圧線の描く懸垂曲線、陶製碍子の艶やかな白、各部材の組合せが生む立華の如き空間への干渉力等々。(...)(本展図録より抜粋)

吉田博のように画面から電柱を排除した画家もいれば、山口晃のように愛すべきモチーフとして捉える画家もいるということだ。

好き嫌いではあるけれども、「電線絵画」展で何より参考になる視点は、僕たちは身の回りの風景のなかから常に何かを排除していて、そこにあるものをそのまま見たり・感じたりすることはなかなかできない、という気付きではないだろうか。

話を大きくしてもしょうがないが、電柱に限らず、人の言葉・意見・情報など、何にでも言えることにように思う。

長い準備をかけた企みに満ちた、いい展示だった。会期が終了してしまって正直残念だが、僕はこれからも電柱を眺めながら、「電線絵画」を探していこうと思う。

(おわり)

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小林清親《浅草寺年乃市》(1881・明治14年)


最後に、おまけとして本展で不満だったことを書く。

電柱好きの自分だけが感じたことだと思うので、よほど電柱に興味ある方はお読みください。



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