「人に優しく」は結果論。

私は捻くれ者なので、「人に優しく」と言われても偽善的に感じられてどうにも苦手だ。
子どもの頃からそういったスローガンは薄寒いため嫌いだった。
「人に優しくしろ」と口で言う教師が、クラスの男の子の容姿を悪くイジるのを見た時、
学校のスローガンの大半と教師の何割かは何も立派では無いクソ未満の存在と感じたのを覚えている。

「人に優しく」出来る人は、当たり前に「自分に優しい」。
自分自身への愛情で自分を満たせている人は、小さな幸せに気付ける。
世界が小さな幸せに溢れていることに気付けると、「人」のこともその世界の一片であると感じられる。
だから自然と「人に優しく」出来る。

それなのに、「自分に優しく」をすっ飛ばしていきなり結果論である「人に優しく」とか言われても…、
と捻くれ者の私は感じるのだ。

「自分に優しく」出来ていない人が「人に優しく」しようとすると、心に抑圧が生まれる。
「俺だって人に優しくされたいのに…」「私はこんなに人を優先しているのに…」という本心を押し潰してしまう。
押し潰された本心は、必ず歪んだ形で露出する。
本人が無自覚であっても他人から見れば歪なものは白々しいほど浮き彫りになる。

人それぞれに事情はある。
家庭環境、悩み事…。
人に優しくする余裕なんて本当は無いのに、薄寒いスローガンのせいで、
無理矢理笑顔の仮面を貼り付ける。
そんなことをするくらいなら、まずは自分にだけ優しくあって欲しい。

他者に優しく在ろうとわざわざ思わずとも、人はきっと本来、難なく優しく出来るのだろう。

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