「やれない」のは今なのだ。
ひょんなことから7月から毎日毎日、普通ならば絶対に交わらなかったであろう人たち、そして今後も交わることがないであろう人たちと言葉のキャッチボールをしている。
交わらないと言いつつ、その人たちは自分の人生を少なからず握っていたりする。嘘はついていない。よく耳にする話とはかけ離れた状況である。人格を否定されたことは無い。僕が言葉に詰まっても、愛ある相槌と共に待っていてくれる。
しかしながら1回のキャッチボールでボコボコに殴られたような気分になる。9月は本当に精神が摩耗していた。僕が続けたい諸々を断ち切ってしまいたくなるような日もあった。最近もあると言えばある。
ただ、僕は糸が切れてしまったのか、はたまた生存本能なのか。嫌な音がするほど擦り切れていくような精神を保つ方法をいつのまにか見つけていた。
「バカボンのパパになるのだ」
いつからか僕は、彼になる時間を持ち合わせるようになった。
一日の中で、どうしようもなく自分がどうしようもない時間がある。
その時僕はバカボンのパパになるのだ(以下、バパ)
「やりたくないことはやらないのだっ」
「そんなこと言われても無理、無理なのだ」
「いつかやるときが来ると思うのだ」
「今できないけどたぶん数カ月後はできるのだ」
「今は流れが悪いのだ」
「終わらない悪夢はないのだ」
「これは明日するのだ」
そう、努力がもしかしたら足りないのかもしれない。
どんだけ苦しくても「ひぇっひぇ」言いながら頑張っている人もいる。
僕の周りには頑張っている人しかいない。少し恥ずかしい。
ただ今、僕は多くのことは頑張れないのだとバパになりきり、できない自分を断固としてできないマンにすることにより。未来の自分になにかを託している。なにかがありすぎてなにかとしか言えない。
なんの根拠もない。しかし、数カ月後、数年後の自分はもっと強くなっている気がする。また気が向いたらnote書く。それで良い気もする。
これでいいのだ。
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