「余命十年」を見て。

「余命十年」を見ました。
何かと、影響を受けやすい僕は、今日、カメラで良いと思った瞬間を記録してました。

「余命十年」を見て、思ったこと考えたことを記しておきます。

人間は、当たり前のように新しい人と出会い、大切なものを作り、普通の生活を繰り返しています。出会えた喜びを求めて、好きな人と暮らす日々の楽しさを求めて、僕らは生きています。
でも出会いがあれば、当然別れもあります。そしてその別れは、大切なものがあればあるほど悲しく、辛いものになる。それをなんとなくわかっています。
大切なものがたくさんあればそれほど、別れが、終わりが悲しく辛いものになるのに、僕らは大切なものを求めるのです。
人生で最も大きな選択が、矛盾しているのです。
いつか来る終わりを、楽なものにしようと思うのなら、大切なものは作らないようにするはずなのです。
それでも僕らは、毎日の中で新しい大切なものを求め続けている。
これは、終わりの辛さよりも、日々の楽しさが、僕らにとって大事だからだと僕は思います。
日々を楽しくしてくれる大切なものが僕らの人生において、必要不可欠なものだからだと思います。辛さを恐れてまで、大切なものを作ることの意義はそこにあるのだと思います。
いつか来る終わりを恐れるのではなく、今ある時間を楽しむことが、僕がやるべきことなんだ、と気付かされました。

終わりがはっきりしてくると、日々の日常もすごくかけがえのないものになります。
なんとなく食べるお菓子の時間も、友達と他愛のないことを喋る時間も、太陽を浴びながらぼーっとする時間も。
僕らが当たり前の日々の価値に気がつけるのは、終わりが見えてきてからのことが多いです。
僕は、世界を作った神様も、終わりがまだ曖昧なうちから、終わりに気づかせて、今をもっと大切にさせてくれれば良いのに、と思いました。
終わりが間近になるまで、終わりをなぁなぁにしているのは、神様の意地悪なのか、いや、僕は神様の優しさなんだと思います。
価値のあるものは、僕らは何かと気を遣いながら扱います。宝石をもらったらそれを壊さないように丁寧に扱います。
終わりを明確にした状態で、価値があるものだと判断をしてしまうと、当たり前の日常が当たり前の日常ではなくなり、何かと丁寧に丁寧に、気を遣わなければいけません。
神様は、当たり前の日常を当たり前のように楽しんでほしい、そういう気遣いで、終わりをあえて曖昧にしているのだと僕は思います。何も取り繕わず、そのままの自分で、楽しんでほしい、そんな思いで神様は、ひどいことをしているとわかっていながら、終わりをあえて曖昧にしているのだと思いました。

「余命十年」を見て、僕が得たもの。
それは、今目の前で起きている事象を、当たり前を、等身大の自分で受け止めること。
等身大の自分で楽しむこと。これだと思います。
今には今しかありません。未来も過去もない。
だからこそ、今見ているもの全てを受け止めて、受け入れて、自分で楽しんでいく、これが何よりも重要であると気がつきました。
今の世界を、今の空気を、そして今の自分を、最大に愛して、これからの日々を過ごしていきたいと思います。

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