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狭い世界で”あいつはすごい”とみなされて… 〜日本映画界の問題にも深く影響している、サブカル文系高学歴マッチョ男性についての考察(1) 〜

 日本映画(※大手配給会社が手がけていない、独立系とも言うべき作品)の問題について考える。

独立系日本映画の世界は、「サブカル・文系・高学歴・マッチョ男性」が中心となり構成された集団において「クリエイティブ」であることが要求されるという、自分のように女性性が欠落したことを理由に辛酸をなめ続けてきた人間にとっては、「地獄のトリプルコンボ」のような環境であると思われる(よく知らんけど)。一人一人と冷静に話をしたらみんないい人なのに、男性中心の集団における、「絶妙な厄介さ」のようなものが日本映画界を覆ってしまっているのではないかと思う(よく知らんけど!)。

日本映画の話とは少しずれるが、自分の過ごしてきた狭い世界において、幼少期から、大学生活、就職後、あらゆる方面のおっさんや同級生や後輩からの攻撃を受け、舌がただれるほどの辛酸をなめまくった経験から、男性同士の集団における、男性が男性を褒め称えたり持ち上げたりすることの厄介さや暴力性、について触れたい。

女性同士の世界にもそういうことが全くないとは言えないが(結構あるが)、男性同士の集団においての暴力性はかなりのものである。なぜあんな奴が威張っているのか?と思ってしまうような、冷めた目で見ている外の立場の人間にとっては、まるで基準がわからない軸で、権力を持った男性から「あいつはすげぇ!」「あいつはできる!」と神輿に乗せられ担ぎ上げられ、祭り上げられているかのような男性が存在する。そういった権力を持つ男性とその男性の手下のような立場にいる、神輿にかつがれているかのように見える男性たちは、「仕事ができる」と思われる、従順そうではなく、ゆるふわでもない、わかりやすく例えると、その昔、たけしが率いる日曜の昼の番組、スーパージョッキーで熱湯風呂などコンプライアンス無視のコーナーの司会をさせられていたはずが、華麗に政治家に転身した蓮舫さんのような「意見を言うことに躊躇しない」「気が強そう」「男性を持ち上げなさそう」な女性のことを、徹底的に男性同士の集団で嫌悪し、その感情を周囲にもばら撒く傾向がある。しかも、困ったことに、彼らは世の中で男性であり高学歴?であったりというようなことで、ゲタをはかされてきていて、自分達の暴力性を俯瞰する目線がないので、そのような差別的な暴力的な傾向に、全く気がついていないことが多い。そして、大抵、彼らは本人はとてもかっこいいわけでもなかったり、男性社会においては差別されがちな華奢でねちっこくてやけに上から目線であまり運動が得意ではなかったような男性(運動が得意だとしても妙に細かくて面倒くさいメンタリティが強め)であったりするにも関わらず、外見的な魅力を尺度にした、女性に対する評価は、徹底的に、恐ろしいほど、厳しい。トムクルーズ(たとえに誰を出せばいいのかわからないが)くらいかっこいいなら、その目線も分かるけど、なぜあなたはそんなに上から目線?というくらい、女性に厳しいことが多いのだ。いわゆる「ミソジニー(女性嫌悪)」の価値観をかなり強く内面化している。

「あいつはすげぇ!」と小さな集団の中で、なぜか祭り上げられている男性は、彼よりも立場が上だとみなした存在には、全力で擦り寄る。その代わり、下だとみなした存在のことは、徹底的に小馬鹿にし、攻撃してくる。外側には見えにくい形でじわじわと追い詰める攻撃を行なってくる。上だとみなした人には徹底的にいい顔をして、見えないところで下をこっそりつぶす能力に長けている。そんな行動は誰も何も言わないので、消された人以外には気づかれにくい。

「あいつはすげぇ!」と小さな世界においてみなされた男性は、「実は…あいつは…すごくもなんともないんじゃないか」と思って、冷めた目を向けている人の存在に、すぐに気がつく。そして、そういう存在を、見事な手腕で消しにかかってくる。「上」の存在や自分のことをすごいと持ち上げてくれる若い人には、惜しげもなく愛情を注ぐが、頓珍漢な尺度で人を勝手にジャッジし、あいつはダメだとかあいつはすごいなどと、やけにたやすく人を裁く。大抵そういった男性は、女性のこともかなり厳しい尺度で、勝手に裁く。(まあ、誰しも、人のことを勝手に裁くのですが)

 日本映画の世界が徹底的に内輪な作品作りに終始してしまうのは、こういった狭い世界の中での「あいつはすげぇ!」と言う謎の軸が幅を利かせているからではないか。そのような偏ってしまった評価軸を利用して、集団の中で権力を振るっている人に「クリエイティブな才能がある」ケースはあまりないのでは(だ、誰の話だよ!)。

「実はあまり才能がない」のにも関わらず、ある集団の中で偉そうに振る舞うためには、「あいつはすげぇ!」と権力を持っている人たちに思わせることが、手っ取り早い。小さな集団の中の「すごい(とされる)人」に擦り寄って「あいつはすごい!」と思わせる行動は、クリエイティブな才能を磨くよりも、たやすくできる。本当に才能があるかどうかが怪しい人が権力を持ちがちな、狭い世界においては、クリエイティブで才能がある人は、なかなかその能力を発揮できない。なぜなら、自分には才能があると思い込んでいるがそれほど才能がない人は、往々にして、「本当に才能がある人」のことを絶対に認めようとしないからだ。(少し身に覚えもある)

本当に面白い作品を作っていて、国際的な評価を得ている日本人の映画監督の方々は、「日本映画」の集団では立場が弱くなり、男性中心の組織における評価軸ではなく、制作した作品の質に価値を見出してくれるフランスや韓国などの海外の製作陣と手を組むしか、作品を作る方法がなくなってしまっているのではないか。

映画が大好きな一観客として、長いキャリアの中でもコンスタントに素晴らしい作品を作り続けている、女性の監督に対するバッシング記事や、映画関係者の辛辣なコメントなどを見聞きすると、サブカルマッチョ高学歴男性が、優秀な女性を嫌悪し叩き潰そうとしてくる、そんな構造が生々しく見えてくる。才能のある監督を声高にバッシングするような関係者たちが、力を持っている世界では、最も大事にすべき「映画が好きで映画館で映画を見たいと思っている、別に映画マニアではない日本人の観客」が、何を求めているのか、どういう作品を見たいと思っているのかと言うような、本来最も優先すべき視点が欠落していく。狭い世界の尺度の方が重要なので、1800円も払って見にきた観客がどう感じるかを重んじるべきだという発想そのものがなくなってしまうのではないか。

その結果が、「面白い日本映画が本当に少ない」と言う、憂うべき状況を作っているのではないかと思う。

 〜誰の話だよ、と思われるとは思うが、この文章はあくまでもフィクションであり、実在の人物とは一切関係はありません!〜


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