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地方と東京(2)〜駅前にコンビニすらもないのかよ!?あるわけないじゃんコンビニなんて・・・

 地方と東京問題を考えるとき、もはや25年くらい前の、当時赤子だった人が成人しているくらい前のことなのだが、忘れられない出来事があった。

 地元では最も大規模だった(当時)予備校で、高校3年の夏に夏期講習を受けた時のことである。私は数学がとてつもなく苦手だったため、数学の特別対策講習というようなものを、受けてみることにしたのだった。どういう経緯でその予備校の講習を受けたのか、よく覚えていない。友人が受けていたのかも知れないが、自分は数学のできなさには自信があり、とりあえず予備校の授業を受けることになった。

 夏休みの数日間の特別授業だけを担当していた先生は、東京から来たという男性の先生だった。彼は、登場した瞬間から、あからさまに不機嫌そうだった。昨今、あからさまに不機嫌そうだったり罵詈雑言を放つ人々を見かけることが割と当たり前の世の中になったが、当時はそういう感じではなかったし、そもそも東京のように人混みなどあまりないような、のほほんとした地元の地域で過ごしていたので、あからさまに不機嫌そうな少し年上くらいの小太りの男性(初対面)の様子にはとても驚かされた。彼はとってつけたような、安っぽいスーツを着てネクタイをしめていた。そのスーツとネクタイが、ペランペランの布でできていて、コントの衣装のような雰囲気が漂っていた。顔はなんとなく、元(いつのことだか…思い出してごらん…)長野県知事、田中康夫(通称ヤッシー)氏に似ていた。

 ヤッシー先生(仮)はとても面倒くさそうな態度で教壇に立っていた。こんなところでこんなことやりたくないのに、というオーラが全身から漂っていた。オーラは陰鬱な灰色だった。(オーラのブームはいつ始まり、いつ終わったのか…オーラが見える人々はどこからきてどこへ行ったのか…)

 彼は、開口一番こんなことを言った。

 昨日の夜さぁー、夜中にコーヒー牛乳飲みてえなぁ、と思ってさー、コンビニ行こうと思ったんだわぁ。でもさぁ〜、コンビニ、ねーんだよ!コンビニすらねーのかよ!駅前だよ!?駅前にコンビニがねぇーってどういうことぉぉ!?コーヒー牛乳、飲みたい気分だったんだよなぁー、本当、終わってんな、コーヒー牛乳すら買えねぇのかよ!

 私はとても驚いた。そもそも地元の駅前には、コンビニというものはそんなにたくさんあるわけではないのだ。当時は、よくわかっていなかったが、電車に乗って移動するのが当たり前である、東京(あるいは神奈川県などのシティ)とは駅の機能が異なるのだ。駅は、当時の生活圏内においてはすさまじく栄えていると思っていた、駅ビルの中のデパートと、ロッテリア、また日本中でそこにしかないとは知らなかった、いまはほとんどのフロアが「まんだらけ」になってしまった書店に行くためであった。あるいはまた、年に数回、東京や親戚が住む、遠い場所に旅行に行くために電車に乗るのが駅、の存在意義であって、電車も1時間に3本くらいしかないのである。基本的に、買い物は車に乗って、国道沿いの店や「ジャスコ」などにいってするものだったから、そもそもコンビニなんて歩いて行けるところにないのが普通なのだ。そもそも、定価のものしか売っていないコンビニでの買い物なんて、吝嗇な母によって管理された我が家においては、戒厳令に引っかかるほどの行動であり、コンビニは生活圏内に無かったので、コンビニに行く習慣もなかった。その上、駅から少し歩いた場所は、東京のように、そんなに栄えているわけではないし、数メートル離れた場所にまたファミマ!ファミマを出てもまたもやファミマ!というような、都内では当たり前の環境はあり得ないのである(今は少し変わったかもしれないが)。なにせ25年前の時点で、コロナもないうちから、駅から徒歩15分くらいの場所は、すでに寂れたシャッター街だったのだ。

 また、自分にとってコンビニといえば、”すぐに閉店する店”であるという認識であった。中学校のクラスの同級生が、自営業で酒屋を営んでいて、酒屋からコンビニに変わったという噂であったが、あっという間に閉店してしまった。彼女は明るくて元気な目の大きい女性で(子供時代の全ては目の大きさによって決まると言っても過言ではないのでそこにこだわる!)地味目な人々に対しては、ちょっと怖い感じの女子であったため、仲良くはならなかった。地獄のような地方の公立中学校では、所属するグループが異なっており、クラスが変わるときにもらった色紙には「勉強頑張ってね」と書かれていた。本当に何一つ書くことがないときに書かれる文面である。私はサークル活動や職場などでたまに行われた「色紙」にメッセージを書く行動も少し苦手だ。みんなに回すのが手間だし、そもそも誰かとの別れについて、心の距離感は多種多様なのに、一枚の色紙に、あたかもみんなが寂しいと思っているというような設定によってメッセージを書かなければいけないのが、何やらとても苦痛なのである。

(大学時代にもらった色紙は、大事に取ってあるけれど、恥ずかしくて読み返したことがありません!)

 授業の内容は全く記憶にないのだが、最後に何か質問があれば、個別に対応しますよ、というようなことをそのヤッシー先生は言った。

 自分としては、それなりに高い金額を払ってその講習を受けていたので、この機会を逃さないようにせねばという心意気で、別の課題の解き方がよくわからなかったプリントの問題を持って質問をしようと思った。

するとヤッシー先生は、プリントを一瞥してこんなことを言った。

「ああ?このプリントは、対応なんかできねえわ。講習とは違うこと、質問なんてされても困るんだわぁ!」

 私はとてもショックを受けた。まぁ、確かにプリントは範囲ではなかっただろう、確かに…。

 東京のひとが地方都市をあからさまに馬鹿にする様子は、その後も無数に見かけたが、記念すべき最初の声高なディスり具合は、そのヤッシー先生の様子が初めてだった。その後シーズン9くらいまで続くなかなか終わらないドラマのような、”地方と東京問題”の、脳内のFirst Seasonは、コーヒー牛乳が飲めなかった小太りの予備校講師から、始まったのだった…。

 

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