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羨ましい・・・そんな気持ちは変わらない・・・!いくつになっても払拭されない!

 さて、何度かこのテーマを書こうと思って、なんとなく忘れていたので、明日も休みなので深夜のCUP NOODLE ねぎ塩味を食べながらしたためてみようと思う。

拙noteの文章の多くを占めるものは、私個人のコンプレックス、あるいは劣等感に基づいた、冴えない記憶である。

小学生、中学生の頃、目が細くて場面かん黙があった自分は、目がぱっちりしていて明るくて、誰とも気軽に話せて友達になれるような人が、羨ましかった。

小学生の頃、団地に住んでいたので、一戸建てに住む友人が、羨ましかった。

歳の離れた兄がいたが、ルッキズム思考の強い、悪魔のような人だったので、兄弟が優しい人、兄弟と仲が良い人が羨ましかった。これは、今も、羨ましい。

故郷愛ゼロの状態で東京に出てきたので、東京に実家があって、住んでいる地域に愛着を持っている人や、東京出身ではなくとも、故郷愛がある友人が羨ましかった。

中学時代は地獄のような思い出しかなく、受験をした第一志望の高校に落ちてしまったので、中学や高校への愛着がある人が羨ましい。

英語教育に力を入れている大学では、全く英語を喋れず、英語圏で生活したことがあるという友人たちや、留学経験のある友人たちが羨ましかった。

就活にはぐれて死にかけていた頃、ちゃんとした企業に内定をとった友人が羨ましかった。(これは、今も、少し、羨ましい。退職金とか、色々…)。

結婚相手が、安定した仕事をしている人が羨ましかった。
今はあまり気にしていない。

子供が2人以上いる人が今も少し羨ましい。やはり一人っ子だと、両親ともに疲弊しているとき、逃げ場がなさそうに見えることがある。

両親との関係が良好な人が羨ましい。帰省の回数を制限している自分は、不幸だと思ってしまうことがある。

職場環境が良好な人が羨ましい。(今はだいぶまともな部署になったが)

ペットを飼ったことがある人が羨ましい。子供の頃に住んでいた団地ではペットは禁止だったし、そもそも両親共に体や精神面で弱さを抱えており、それを自分も引き継いでいるので、何かを世話ができるような人たちではなかった。上京してからもペットが飼えるような物件に暮らしたことはなかった。今も、ペットを飼える物件ではないし、飼ったことがないので、飼い方がわからない。今後も飼う予定は無い。旅行が好きなのでペットはあまり向かない気もしている。

気兼ねなく住宅ローンを組める人が羨ましい。自分はいつまで働けるかわからない。

…いくつになっても、羨ましいことばかりなのである。

でも、私が「羨ましい」と思っているものごとを、持っているように見える人たちは、それを「持っていない人がいる」ことに気がついてはいない。

私が「全て」を持っている、と揶揄されたように。はたから見たら何かを持っているように見えていても、本人がそれを「持っている」と捉えるかどうかはわからない。

どうしてこんなに比べてしまうのだろう。
誰かと比べて悲しんでいた頃のことを、何年も経ってもまだ、覚えているのだろう。

持っているという自覚すらない人のことを、勝手に「自分にないものを持っている」と捉えて一方的に憎んでしまうのは、どうしてなんだろう。

生き方の指標となるようなしっかりとした宗教観があるわけでもなく、個人主義でもない日本において、「比較」しか生きる上での軸がないのはとても辛いと思う。

以上です。




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