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昏い森を踊る体/後編[短編]

 常盤さんがその話をしてきたのは、私が比嘉さんに体の左側だけが勝手に踊るという話をした数日後だった。
元々は給湯室だった場所に銀色にピカピカ光るコーヒーメーカーが備え付けられ、社員は自由に飲んでいいことになっている。でも入社3年目にして、休職したこともあって未だ新入社員という遠慮が抜けない私は、コーヒーメーカーを利用したことがなかった。いつも水筒持参だ。
それを聞いた常盤さんが、じゃあ一緒に行こうと誘ってくれた。
実はコーヒー党の私は、オフィスに漂う淹れたてのコーヒーの香りにいつもうずうずしていたのだ。

 そこでばったり営業部の比嘉さんにあった。
そんなこと話すつもりはなかったが、廊下で会えば必ず労りの言葉をかけてくる比嘉さんだったことと、コーヒーを飲めたささやかな幸せで気が大きくなっていたのとで、思わず聞いてしまったのだ。
「事故で怪我した体の部分が、自分の意思とは関係なく動くとかないですか?」
比嘉さんは「自分にはないよ」と答えた上で、身を乗り出して話を聞いてくれた。

あまりに根掘り葉掘り聞かれるので、うっかり洗いざらい話してしまって話しながら焦りを覚えはじめた。
だって、自分の体なのに自分のものでないと言い出すなど、もしたら精神的な不調でもあると思われたかも知れない。その可能性もあるにしても、話し過ぎたことに変わりはない。
体が勝手に踊り出すというだけでも、十分面倒くさそうな話なのに踊る左半身は自分に此処こことは別の世界を見せているようだ、とまで言ってしまったのだ。
比嘉さんが変な顔をしなかったのはせめてもの救いだった。でも当然彼にもさっぱり分からないようで、
「事故に遭った人が超能力に目覚るって映画とかだとありがちじゃないですか。体が治ろうー治ろうーと思う余り第六感的なものが開花するわけで。そんな感じで、沼田さんも何かに目覚めたのかも。あ、面白がってる訳じゃないからね。思い詰めるのがよくないよ、一過性のものかも知れないし」
とにこやかに話を締めくくった。沼田は私の苗字だ。

「営業の人って社交的ですね」
比嘉さんが去った後のコーヒーコーナーで、そこで一部始終を聞いて、というか聞かされていた常盤さんに言った。
少しきまりが悪かったが、常盤さんはいつもと変わらない態度で、
「営業部が全員社交的なわけじゃないし、比嘉さんだって誰にでも話しかけてくるわけじゃないよ」
と含みを持たせた声音で返された。
私は曖昧に笑って話を濁し、2人でオフィスへ戻った。その日はそれだけで、常盤さんの中から私の踊る左半身の話題もそろそろ流れ去っただろうと思われる数日後、油断していたこところに話しかけられた。


 私は雨の降りそうで降らない天気が苦手だ。どうしても事故の日を思い出してしまって不吉な感じがするのだ。
いつもは4時半に上がって補助席の付いた自転車に跨って去っていく常盤さんが、今日は珍しく残業していた。時短だとどうしても片付かない仕事量で、今日は旦那さんが保育園へお迎えに行くという。
定時を過ぎて社員も帰り始める中、常盤さんは課長に許可をとってあと1時間残業すると言った。
「手伝いますよ」
と言えば常盤さんは、大袈裟に喜んでくれた。いっそ雨が降ってから帰ろうと思っていたわけだが。
いつも何かと常盤さんに助けてもらっているのに、みんな見て見ぬふりなんだよな、と心の中で呟いたのが聞こえたようで、
「いつもさっさと帰るやつが、自分の都合いい時だけ残業してると思うところもあるよねぇ」
と常盤さんは言った。
人気のなくなった部屋で黙々と作業して、外に出た時にはもう霧のような雨でアスファルトがしっとりと濡れていた。
そのタイミングで、
「この前、比嘉さんと話しているの聞いていて、ちょっと他人事でないぞって思ったんだけど」
と常盤さんが話しかけてきた。
私達は雨を避けて近くのカフェに入った。


「突然重い話をするけど、沼田さんはヘビーさに引きずられやすい方?」
と常盤さんは前置きしてきた。
「話の内容によりますが……」
「そりゃそうだよね」
「でも気になるから聞きたい、かな」
「うん、そうね。じゃあまずこの話は、私の中でも私の家族の中でも一区切りはついてるから、沼田さんには気を回してほしくないわけ」
「はい」
私はなるべくフラットな声で返事した。

常盤さんはガムシロを5つも入れたアイスティに口をつけた後、
「私の子どもね、生まれる前までふたりいたの」
と切り出した。
私の「はい」には驚きがまざる。
「双子を妊娠してたけど、生まれたのは結彩ゆあだけだったわけ。予定日直前まで順調にきたのに、急に心音が無いって急遽、帝王切開して」
「そんな」
「元気に生まれてくるって疑ってなかったよ。まあリスクがあるのは分かってても。お医者さん達は手を尽くしてくれたけど、結叶ゆとは生きられなかったの」
それから常盤さんは初めての子育てでてんやわんやだった話や、亡くなった子の供養の話などした。
「結彩が生まれた時から私はお母さんになるじゃない。もうそれは止められない。母としての日常が容赦なく始まるわけだし、結彩は日一日と育っていくわけ」
「なんかすごいです」
「飲んでね」
私はコーヒーカップを両手で包んだまま、飲むのを忘れていた。
「私、不思議なんだ。結叶はどこへ行ってしまったんだろうって。結彩の世話している時、ふっとその感覚が降りてきてね。頭では分かってるし気持ちの整理もつけた。
でも私のお腹に結彩と結叶のふたりがいたってことが大きいと思うんだけど。結彩も結叶も私の体から離れた時に、ひとりが死んでひとりが助かったってことではなくて、それぞれが別々の世界に行ったって気がね、ふとしてしまうんだ」
それはお子さんの死を受け入れる受け入れないとか天国を信じる信じないとかの話のように聞こえなくもなかった。
常盤さん自身もそれをずっと混同していたが、そうではないと最近分かったと説明された。

「結彩と結叶のいる場所は全然違うようで地続きだって思ってる。ううん、思うんじゃなくて、もっと本能的なところで感じてる。
命が特別なものでも死が特別なものでもなくて、お互いみえない手を繋ぎあってるっていうのが、私にできる説明かな?
でも頭で考えているというよりもっと感覚的なんだ。結彩を見てる私の目は、結叶の方にも向けられているの。でもその感覚をダンナにさえ伝える言葉がないのよ」
未練とか回顧とかそういうニュアンスが勝手に伝わっていることに、もう太刀打ちできないと常盤さんは唸った。
「でもその感覚って、沼田さんが話した自分のもので自分のではないような体が、どこか別の風景と繋がってるっていうのにすごく近いって思って、あの時は驚いたよ」
常盤さんは秘密を打ち明けるように、少し興奮気味に言ったがでも次は私が驚く番だった。
「私、ずっと気になる詩があってその内容が、私にとって大事なことを詠っている感じがしてさ」
と常盤さんが誦じた詩は、細部は違えどハルノサクラの詩に違いなかったからだ。

小雨降る桜並木をあなたと歩きました
しっかりとお互いの手を握っていました

あなたは何も喋らない
あたしも何も喋らない
温度がそこにありました

桜はいつのまに散ってしまったのでしょう
あなたはいつのまに消えてしまったのでしょう

その死はいつのまに始まっていたのでしょう
雨空に溶ける薄紅色の花びらは
いつから死んでいるのですか
蕾が開くときもう始まっているのですか、死が
それともあの黒くごつごつした幹の中に仕舞われているのですか

散る花びらを目に焼き付けて
あなたと立っていました
しっかりとお互いの手を握っていました

あなたは何も喋らない
あたしも何も喋らない

雨空に手を伸ばす
踊るように手を伸ばす
桜枝のようにあたしの腕は伸びて
指は花のように咲きます

あなたはどこにいますか

「知ってます、それ知ってます」
と私はうわずった声をあげた。
「誰の詩ですか?どこで知ったんかですか?」
「さあ、私、文学とかに疎いから誰の詩かわからないのよ。でも沼田さんが知ってるって有名な人かな?」
「私はネットで見たと思うんですがどこの誰のかも、本当にそんな詩があったのかも分からなくて。でもびっくりしました。まさか常盤さんの口から……」
「そんなことってあるんだね」
と常盤さんは微笑んでグラスの底に溜まったシロップを氷とからめた。

「沼田さんの体の左が踊るのはどんな場所?」
と聞かれ私は何度となく連れていかれた風景を思い描いた。
「森なんです。どこか現実離れした森。樹々が鬱蒼としているのに、空気は乾いていて、足の下には枯葉が一面に広がっていて、ところどころキノコが生えてるんです。
生き物の気配はなくて、暗いのにでも不気味とか怖い感じはしません。
美しいんです。静かでひんやりしていて。
ひとりぼっちの画家が丹精込めて描いた森の絵みたいな、緻密で想いのようなものがこもっているのに現実感が薄くて。でも閉じた場所ではなく、森はどこへでも広がっていけるって感じで。
あの場所と繋がっているとき、ひどく無垢なものの存在を感じるんです。
霊とか妖精かも知れないけど、私には名付けようがありません」
常盤さんにちゃんと通じただろうかと見返すと、穏やかな顔をしていた。
その顔が、あまりにお母さんっぽくて私はなぜだか涙が出そうになった。
ああこの人もあの森を知っている人だと思った。



おわり


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