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5月の窓11月の椅子◇3◇

<3>プール①/理玖

子ども達が去った後のプールは、いつも以上に静かな気がする。金曜日は午前中にベビークラス(これは保護者も一緒にプールに入る)があって、2時半から7時半までが年齢とレベルに応じた児童クラスだ。

理玖の受持ちは午後からの児童クラス2コマと、午前中には個人レッスンを2コマこなしていた。個人レッスンの生徒は、60代の男(きれいなフォームを身につけたい)と40代の女(コロナ禍に大勢でのレッスンはイヤ)だ。
男の方は始終飲みに行こうと誘ってくる。今は無理ですよ、と断っていたが店がダメなら「妻がぜひにと」と言って自宅に招こうとする。
なるべく話を短く切り上げるようにしているが、いっそ行ってしまった方がわずらわしくないかも知れないと思い始めた理玖である。
しかし「ぜひ奥さんも連れて」と言われると、そんなつもりは毛頭なくても考えてしまう。

恵都とアヲ。
この全くタイプの違う2人のどちらか1人を連れて行くなら、恵都だろう。
機転がきくし基本的におおらかで、たいていのことには物怖じしない。

彼女ほど外ヅラのいい人間に今まで会ったことがない。少しだらしないところが可愛いなどと思っていたのは、付き合っている内で、一緒に暮らし始めると少しなんてものじゃないことはすぐ知れた。
まず、出したものを元の場所に戻すという習慣がなかった。床も机も物を置けるだけ置く。それでも無くすことはなく、混沌の中から車のキーだの口紅だのを迷いなくピックアップするのは感心した。

自分以外にも恋人が3人いるとは最初に聞いていたが、まさかその1人がアヲだったとは震天動地の出来事だった。

ただでさえ仕事関係の付き合いも多い恵都に、4人との交際はどうみたって超過密スケジュールだ。理玖には極めて煩雑に思える事でも、恵都は混沌の中から迷いなく口紅を取り出すようにやってのけた。
常人には窺い知れない何か特別のコツがあるのだろうと理玖は考える。
恵都の要領良さの半分でもあればな、とも思った。


理玖はロッカールームで私服のジャージに着替えて店を出た。
イヤホンから流れこんでくる音楽が気分を上げる。デートの前みたいな。
そういえばコロナ禍になって、どちらともデートらしいデートはしていない。新婚旅行はGo to  トラベルを使ってなんて言ってたのに、結局流れてしまった。
今日はドン・キホーテによってアヲの好きなビールをケースで買おう。
飲むより食べる派の恵都のために料理の仕込みは済ませてある。

職員通用口から駐輪場までの狭い道に、真っ赤なアウディが停まっている。
ジムの会員はこんなとこに停めない。誰だろう?
突然、車窓が下がったので理玖は慌てて視線をそらした。

「こんばんは。太田コーチ」

名前を呼ばれて瞬時に営業スマイルで返したが、誰だか分からない。子どもクラスの保護者だろうか。会釈を返してスクーターのエンジンをかけた。

プスっという間の抜けた音に続き不吉な沈黙。
中古で買ってからなおしながら乗ってきたベスパも、ここ数日すこぶる調子が悪かった。雨続きでエンジンをかけずにいたのもマズかったかもしれない。
放っておくと拗ねる、手をかけると機嫌がよくなる。気分屋のイタリア娘のエンジンをなんとか回そうとした。

「かわいいスクーターですね。コーチの?」

振り向けばアウディの女性が背後からのぞき込んでいた。

「えええ」

驚いたのをのみ込んだから変な声になってしまった。そこでようやく女性の正体に気がついた。

「鴻池さん!」

個人レッスンの女性だ。プールでは化粧は落とすことになっているから顔が違う。

「故障しちゃったんですか?」

「かな?全然エンジンが掛からないんですよ」

多少の不具合なら自分で何とかしますが、部品がいかれちゃってると面倒なんですよ。そんな話をしながら触れるところは触ったが、分らない。電気系統がとんでしまったのかーーー。

「困ったなあ、今日は早く帰らなきゃいけないのに」

思わず呟くと鴻池さんが意外なことを言った。

「私が送りましょうか?」

「でも、鴻池さん何かご用事があったんじゃ。あ、フロントの者呼びましょうか?」

「いいえ。私が用があったのは太田コーチです」


      ◇  ◇  ◇

「すみません、買い物にまで付き合わせてしまって」

「いいんです。ドン・キホーテって初めてきたから」

ブリュードッグというスコットランド産のビールを1ダースとつまみを1袋アウディに積み込むと、鴻池さんは理玖の住所をカーナビに入れた。

「海の近くなんですね」

用事があると言ったのに鴻池さんは涼しい顔で運転するばかりだ。
ポツポツ世間話をするうちに、彼女が北海道の出身であることやトイプードルを2匹飼っていることが知れた。

会話はゆれながら少し漂って、車窓の景色と流れて行った。
実体のあるようでないような話題は、鴻池さんの用事に踏み込むきっかけにするには弱々しい気がした。反対に鴻池さん自身は自信に満ちた人特有の輪郭を崩さなかった。

理玖はあれこれ考えるのをやめた。肝心なことは分からないけど、もしかしたら鴻池さん自身にも分かっていないのかもしれない。時々訪れる沈黙はタイミングを測っていると言うより上の空に近い気がした。

やめると俄然、高揚感が湧いてきた。楽しいことが待っている。
市街地を抜けると空が広くなって、桃のゼリーみたいな夕焼けが広がっていた。


続く

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