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璦憑姫と渦蛇辜 10章「凪女」②

 凪女なぎめの後ろに続き坂を下ると海へ出た。岩場にもやわれた小舟には、流木をくり抜いた面を付けた従者が待っていた。凪女の目配せで船をこぎ出した従者は一声も発しない。
小舟は沖まで出ると滑るように碧の海面を進んだ。
半島を左手に陸に沿って進み、先端までくると岬の下に舟を寄せた。海中から岩場を削って階段が伸び、岬の上へと続いている。
 「お気を付けて」
と先に降りた凪女がタマヨリの手を取った。凪女は急な階段を裾さばきも軽く登っていく。下を歩くタマヨリはちらりとその裾から黒い鰭のようなものが見えた気がした。

 階段の頂上、岬の上には大きな屋敷が建っていた。
「ここか? ここにおれのお母さがいるんだな? 」
「ええ」
「ああ……」
話したいことはたくさんあったはずなのに、いよいよ顔を顔を合わせるとなると何を云えばいいのか分からなくなる。
「姫様が健やかにお育ちになって、乙様もーお母上も喜ばれると思いますよ」
「そうか……。凪、おれ捨て子だったんだ。でも捨てるには訳があったんだと思う。でも、もしかしたらもう本当に要らなくて捨てたのかも、って少し思ってた。喜んでくれるなら……おれ、良かった」
「はい」
「あと、お母さは乙様ゆう名前なのか? 」
「私ども、お仕えするものは乙姫様、もしくは乙様とお呼びしておりますが、真名ではございません」
「真名って? 」
「本当のお名前です。乙様はこの海において指折りの術の使い手であられます。ゆえに真名は隠しておられるのですよ」
「なんだか分らんが凄いんじゃな」
「ええ、このお屋敷も本来なら海の底にございます」
「え」
目の前には立派な門構えが確かにそびえている。
「かりそめの術を施されておりますゆえ。あるようでない、ないようである。見ようとする者の前にだけ現れるのです」
「へえ」
驚きのまま門をくぐれば、そこはもう水の中だった。
陽光の代わりに海月くらげが発光し灯りとなっている。しずしずと先を行く凪女の後を、タマヨリはきょろきょろとせわしなく追った。
壁の少ない代わりに大きな柱が何本もあり、それが奥へ奥へと続いている。大きな紅珊瑚や阿古屋あこや貝が所々に飾られ、その台座はみごとな石膏細工だった。

 柱の影からくすくすと笑い声が聞こえた。
「みっともない脚」
「何を連れて来たの」
「お山の猿かしら」
タマヨリが立ち止まると声は止んだ。行きかけるとまたクスクス笑いが聞こえる。
「誰か、おるようじゃが」
「姫のご兄弟ですよ」
凪女が答える。
「え、おれ、兄弟までおるんか」
「姉妹が三人、兄弟が二人お見えです」
「はあー」
タマヨリは振り返って柱の影を覗こうとすると、そこから魚の尾鰭がするりと逃げ出した。
すっと三方へ散ったそれらは人魚の娘だった。
「人魚じゃ!」
三人の人魚たちは顔を見合わせくすくす笑いあったまま、屋敷の奥へと泳ぎ去ってしまった。

なるほどなるほど、とタマヨリは思った。
自分が普通の人間より長く深く潜れるのも、早く泳げるのも、人魚が兄弟ならそれも有ることだ。海の凶暴な生き物に襲われることがないのも、唄うことで人の魂を海からあげるのも、人魚の血のなせる業かもしれない。
しかし凪女は思いがけないことを云った。
「ご兄弟とは血の繋がりはございません」
「え!なんで」
「……乙様は『中津海』からお目にかなった人魚や魚人うおびとを連れておいでです。召使や下奴になさるためですが、中でもご寵愛される者を自らのお子にされています」
「そうなの?じゃあ、凪も『中津海』からきた人なの? 」
「わたくしは人間です。もう百年も昔になりましょうか、波にさらわれ溺れたところを乙様にお救い頂きました。それからずっとお仕えしております」
「え、百年も前から?そんなお婆さには見えんが」
「ふふふ。それもこれも乙様の術のおかげです」
まだ見ぬ母の不思議な術を思うと胸が高鳴った。自分に授けられた力も、もしかして『いさら』も母のそれがなしたものかもしれない。
「ひとつ申し上げますが……」
扉の前で立ち止まり凪女は云った。
「乙様がお産みになったのは璦憑姫さまただ一人です。どうか、お母様へのその素直なお気持ちを失くさないで下さいませ。姫さまのお心は、姫さまならお母様を癒して差し上げられると凪は信じております」
その時、タマヨリはまるで吞気であった。凪女が何を云い含めようとしたのか、分かったのはずっと後になってからだった。
一目会いたいと願った母親に会えることが、ただ夢のように嬉しかったのだ。

扉が開いた。
肌で分かる。そこは『下海』の深部だと。灯された明かりの分だけ闇が濃くなる。
御簾みすが掛かるその向こうに、母親ー乙姫がいるのだろうが、重苦しい威圧感が伝わってくる。
御簾のだいぶ手前で凪女は立ち止まり頭を下げた。タマヨリもつられて一礼し御簾を見上げた。
「帰りなよ」
手前の暗がりから声がした。
「母上殿がお前なんかに会いたいわけないじゃないか」
若い男の声だった。
「凪女は頭が悪くなったのかな」
別の声が云った。
御簾の向こうで人の動く気配がした。タマヨリの目はただ一点だけを見ようとした。立ち上がり今しも去ろうとする人の顔を御簾越しに、縋り付くように見た。
 美しい黒髪、真珠色の肌、怜俐で妖艶な眼差し。その美貌を彩る宝石の輝き。輝く髪飾り、首元には見覚えのある首飾りが。香の薫り高く去りゆく人のあらんかぎりを見ようとした。

「坊ちゃん方。璦憑姫さまはお母君に会いたくて、遠くはるばるやってきたのですよ。どうぞご兄弟仲良くしてくださいまし」
凪女は姿を隠したままの声の主らに向かって云った。
「あれ、凪女が僕らに意見するのかい? 」
「人間のくせに」
「ただの侍女のくせに」
乙姫の息子たちは好き勝手に云う。その傍らでタマヨリは、今見た姿を反芻していた。
ーキリっとした感じは礁姐しょうねえに少し似てる。でも、おれにも、おれにも似ておった!人魚ではなかった。あれがおれのお母さ。
それから気になったことを聞いてみる。
「なあ、凪。お母さの首飾りは、おれの連れ…山の鴉雀が持ってたものに似ておったが、どういうわけか分かるか? 」
「はい。あれは竜宮の宝珠なのです。わたくしが兄弟に頼みました。海の者には立ち入れない場所にございますので」
「どうりで」
なんだか縁を感じると口の中で呟いて、御簾の左右を交互に見た。そして
「兄弟たち」
と呼びかける。
「なんだなんだ」
「兄弟なものか。生意気な童め」
右からウツボの半身をした者が、左から烏賊の脚をした者が現れた。
「ああ、やっぱり半人半魚なんだな」
タマヨリは二人の容姿を眺めまわして、われ知らず誇らしいような笑みが浮かんだ。
ーやっぱり、お母さに似ているのはおれだけだ。血ぃが繋がっとるからな。こいつらは違う。
「タマヨリだ。よろしく頼む。それから凪のことを悪く云うな。おれも人間だ」
タマヨリに宣言されて人魚の兄弟は顔を見合わせた。それから大口を開けて笑い始めたが、彼女はすでに背を向けた後だった。





つづく

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