スターゲイザー scene7
7.前夜
「やっぱり、あの人を野放しにしてはいかんかった。」
航介の隣で宇希はどんどん青ざめていく。
「どうしたら客演した先で、人の役を奪い取るなんて悪魔の所業ができるんだ・・・」
宇希の顔には脂汗まで浮かび、『一麟舎』のパンフレットを握ったりめくったり、せわしなく手を動かした。そうしていないと、とても座っていられないというように。
ここ名東区の小劇場の、中央前列の座席を確保しているのは、野瀬真幸(元『芝居屋21衛門』主宰)、その隣に小島マイ(元21衛門・現在『劇団pieces』女優)、加藤勇気(元21衛門・現在フリーの役者)、上島航介、辻宇希、べーへー(野瀬の友人/音響マン)である。べーへーは、ドギースプリットの旗揚げ公演の音響のオペレーターを引き受けている。劇団『一麟舎』の公演も、曳馬からチケットを強引に買わされ見に来たのだ。元『芝居屋21衛門』の面々とは公演会場入り口でたまたま顔を合わせ、流れで近くの席に着いた。客席は8割がた埋まっている。夏香の言った通り、10代から60代ぐらいまで、幅広い年齢層である。
航介は左座席の宇希のことなど気にも留めず、キザなポーズで背もたれに体を預け、派手な柄物のパンツに包まれた脚を高々と組んだ。膝に置いたパンフレットの中から、挟み込まれた『ドギースプリット』の公演のちらしを抜き出して眺めている。
公演パンフレットには他の劇団の宣伝ビラが挟み込まれていることが多い。折込といって小劇場系劇団では重要な広告手段だ。『ドギースプリット』のチラシはフルカラー刷りでひときわ目を引く。レトロポップでカラフルな空間、それに映える黒い衣装の二人組、『第一回公演 Make a wish!』のフォントの洗練具合も文句なしだ。夏香がデザインした劇団のマスコットキャラクターの柴犬「マギーくん」もちゃっかり載っている。そして写真中央、秘密めいた微笑みを浮かべた麗しいシスター姿の自分が、見つめ返してくる。
ーこの劇場中の観客全員の手元に、俺のチラシがあるんだ。
そう考えるだけで背中がゾクッとする。
ー「性別を超えた美しさがある。」
撮影場所にしたカフェのオーナーの言葉が蘇ってくる。
ーこのチラシを見たらみんな、俺のとりこだな。
足を組みかえそれを膝の上に載せた。右隣の加藤勇気の目につくようにだ。さっそく勇気は、
「あれぇそのチラシ、ドギースプリットの?!これ、もしかして航介?」と覗き込んできた。待ってましたとばかりに航介が口を開こうとしたとき、宇希がおもむろに立ち上がった。
「あたし、『一麟舎』の主宰の人と、曳馬さんが役を取った役者さんに謝ってくるわ。ああ、なんて言えばいいんだよ。土下座すればいいんかな。」
「まてまてまて」とべーへーが宇希の肩を押して座席に戻しこんだ。
航介から右一列に座った全員が、宇希をいぶかしげな目で見た後で「なに?」「どうした?」とざわめいた。
「とりあえず、ほら深呼吸だ。」べーへーに言われて、宇希は座席に不自然にねじ込まれた体勢のまま吸ったり吐いたりを繰り返し、
「そ、そうですよね。今、楽屋に押しかけても迷惑の上塗りですよね。ドギスプの全員が非常識とか、思われちゃいますよね。でも、もう死にたい」と言った。
「え、死神でも死ねるんだね。誰を道連れにするの?」
野瀬が落ち着き払って吞気に話しかける。不本意ならが笑おうとした宇希の顔は、だが固まった。
「何があったの?航介のとこ?」とマイが遠慮なく聞く。宇希が何かを引き金に突拍子もない行動に出るのはおなじみだったが、言葉の断片から劇団がらみであるのはよく分かる。野瀬も勇気も首を揃えて、航介の説明を待っている。航介は、うーんと眉間にしわを作ってから話し始めた。
『一麟舎』から出演依頼を受けた主宰の曳馬は、クリスマス定例公演「空に歌う、君と謳う」に出ることとなった。自分とドギースプリットの名前を売り込んで、観客動員数を増やしたいという野心があっての出演だ。
舞台は歌手を夢見る中学生の美奈子とその家族の話だ。夢に向かって進んでいきたい美奈子だったが、認知症の祖母、介護のため好きな仕事を諦めた母、父の浮気、受験に失敗した兄、若くして死んだ祖父の幽霊など、それを許さない事情に囲まれている。そこに美奈子を応援する友達、思いを寄せる男子生徒、お節介焼きでファンキーな隣人などが絡んでくる。美奈子とその家族を中心に、各人の思いが交錯する人間ドラマだ。
自身の劇団の旗揚げ公演を三週間後に控えた曳馬のスケジュールはタイトだ。依頼されたのはファンキーな隣人の役で、出番自体は少ない。しかし奇妙奇天烈な言動で美奈子と家族を翻弄し、結果的に閉塞した家族の状況に風穴を空けるキーマンとなる役どころだ。他の劇団でも、その様なアクが強くインパクトのある役を務めることが多く、彼の得意とするキャラクターであった。しかし、彼は別の役と取って代わったのだ。
そしてそのことを、ドギースプリットの誰一人として知らされていなかったのである。夏香が折込作業中に情報を掴み、本番当日になってドギースプリットのメンバーは真相を知らされた。曳馬としては、サプライズのつもりだったらしいが宇希は「後ろめたいことがあるから黙っていた」と決めつけている。
「でも、演出家が納得しないと役なんてそうそう変えてもらえないから、謝るような事態ではないよ。」
話をきいたマイは言ったが、宇希は「だとしても・・・」と言いよどんだ。
「出させてもらってる遠慮はないのかよ。」
「曳馬さんだぜ、俺の役は俺の役、お前の役も俺の役、というスタイルなんだろう。」
航介は宇希の深刻さなど意に介さず言った。
「だから怖いんだよ!なんで普通にもらった役をやらないんだよ、何様だよ。絶対、印象悪くしてるよ。下手したら敵作ってるよ!」
「誰もが納得ずくで振られた役を演じるわけではないんだけどね。結局のところ実力の世界だしさ、敵をつくるつくらないも含めて本の人の技量だよ。」
「うわ、野瀬さんがいうと重いわー」
かつての劇団主宰者のセリフにマイは意味深に反応してみせた後で、
「勇気はほんっと敵つくらないよね。」と続けた。
「腰の低さには定評がありますからね、僕は。」
加藤が言うと宇希以外のみんなが笑った。
「辻ちゃん、しょい込むと後が続かんぞ」旗揚げは無論、公演毎のプレッシャーを熟知している野瀬は言った。それにも答えられない宇希を横目にパンフレットをめくりながら、
「さ、ベテラン俳優から役を奪ったドギースプリットの役者さんの演技でも、じっくりみましょうか。」と笑った。
さらに一段と暗澹たる顔になった宇希を、べーへーは気の毒そうに見やった。
「曳馬さんからは、一瞬だって目が離せないぜ。何と言っても俺が認めた役者ですから。」
航介だけがやけにキラキラした目で舞台の幕が上がるのを待っていた。
「認めたって・・・偉くなったね。」
「マイさん、俺ドギスプのツートップですからね。」
「・・・二人しかいないのにツートップ言われても。」
とんちんかんな航介に、厚顔不遜な先輩役者。ドギースプリットは一体どんな劇団なのだろう。マイは宇希の苦労を思って苦笑いをした。
しかし、いったん幕が上がりお芝居が始まると、曳馬がインパクトの強い隣人でなく、極めて地味な父親役を希望した理由を彼等は理解した。
『一麟舎』のドラマづくりは繊細だった。主役として主旋律を奏でるのは美奈子だが、例えば、家族の間で疲弊していく母親、幽霊として家族を見守ることしかできない祖父、ひとりひとりにまつわる話がうるさくない程度に粒だっている。伴奏がしっかりしているからこそ引き立つメロディーライン。ファンキーな隣人が装飾音なら、父親は重低音。気難しいくせに意志の弱い、張り切るほど空回る不器用な父親、曳馬が演じたのはそんな男であった。
「あの中で、どの役者をもう一回見たいかって聞かれたら、航介の先輩だなあ。」
カーテンコールが終わり観客席が明るくなる中で、マイが隣の勇気に言うと、勇気越しに航介が得意満面に「言ったじゃないですか!」と笑った。
「確かに、隣のおじさん役をやっていたら、はまりすぎて、見てる方もさ、それで満足だったろうね。」
と反対側から野瀬が言った。
「僕、怖いです。曳馬太一って役者、底が知れないというか、人間としての色気がすごいというか、怖いなマジで」勇気が言葉とは裏腹に和やかな口調で言った。「航介いいね、あんな人と二人芝居なんて羨ましいよ。」
「上島くん。」思案気だった宇希が、
「これから練習キツくなるよ。」とぴしゃりと言った。しかし、
「ドギースプリット、いっぱいお客さんきちゃうね。」
と言ったマイの言葉に、宇希は眉間のしわを解いてにたりと笑った。
大晦日までとんかつ屋で働き、バイトを終えたその足で航介は三重の実家に帰った。正月三が日は寝て過ごし、名古屋に戻るとドギースプリットの団員にべーへーを加えた6人で揃って熱田神宮へ参拝した。
21衛門解散のおり、譲り受けた古着の着物の上に大須で買った羽織という出で立ちで、航介は参道を進んでいる。下駄と足袋が用意できず足元はショートブーツだが、これはこれで大正浪漫的なコーディネートとして良しとした。曳馬は着古したスタジャンで、宇希はナイロンの黒いアノラック、べーへーは軍物のジャケットに頭にいつものバンダナ、夏香はダウンジャケットが暖かそうだがもったりしてぬいぐるみっぽいシルエットになっている。それに比べて、朱江は真っ赤なケープコートにロングブーツ、フェルトのベレー帽、曳馬に「めかしこんで」と冷やかされうつむいていたが、嫌みなく似合っている。彼女と航介が並んで歩けば、参道を行きかう人達が振り返った。
「いいなあ、美男美女。」
いつの間にか前後に二人と四人に分かれ、後ろを歩いていた夏香がぼやいた。
「なっちゃんもよくお参りしときな、おっきくなりますようにって。」
「そう、今年こそは150センチ越えを!ってもう成長期終わってます。」夏香はグーにした両手で曳馬をなぐるふりをした。
「俺もお願いしなきゃ。太一君が今年こそお金返してくれますようにって。」
前歯の一本かけた口元でべーへーが笑った。
「いくら貸してるんですか?」と宇希が聞くと、
「三万二千円」と答えた。
「増えてない?」
「そうなのよ。実は俺がドギスプのオペ引き受けたの、取り立てのためだから。」
「いえ、逆に持っていかれてますよ。」
「そうだっけ?」「だって、去年は貸し二万でしたもん。」「あ、そっか。」
「俺さ、西美薗くんの頼まれたらイヤと言えん性格好きよ。」と曳馬が言った。
「にしみその?ってだれですか?」夏香が聞くと、べーへーは「やめて!やめて!」と手を振った。
「え、もしかしてべーへーさんですか?」
「彼、西美薗輝清くんね。」
誰も知らなかった本名を曳馬に突如暴かれて、べーへーは恥ずかしそうに笑った。
「え、公家ですか?」宇希がおおげさに驚けば、ないないと言って色の抜けた髪をくしゃくしゃと掻いた。
「ついでに言うと、」と曳馬。「べーへーってのはアメリカ兵で、米兵ね。」「なんで?アメリカ人だったの?」「いや、俺軍物が好きで、米軍の古着を着てるからさ。」
夏香と宇希が「あー、なるほど」とうなづきあう横で、
「名前恥ずかしいんだから―、太一君のばかー」と、今年31歳になる男は大いに照れていた。
公演の成功、観客大入り!、怪我や病気をせず本番を迎えれれますように、充実した一年でありますように、いい仕事と縁に恵まれますように、俺の輝きで世界が希望にみちますように、灯体が落下したり食べた弁当がアタったり劇場がテロリストに襲われたりマグニチュード8クラスの地震が起こったり役者が拉致されたりあらゆる災難がドギスプの旗揚げ公演に降りかかりませんように・・・。皆それぞれに神様に祈りを捧げた。
航介達が神前を離れてもしつこく願い事を重ねる宇希だったが、公演の成功をあらゆる角度で祈願した後、最後に心の底に残っていた事を、祈った。
ー朱江と曳馬さん、三人ずっと一緒にドギスプを続けられますように。
「お前、100円でどんだけお願い事かなえてもらうつもりだよ」
待っていた曳馬が言った。
「おみくじ引きましょ、屋台で甘酒と中華まんとクレープ買いましょ!」
夏香が曳馬の袖をぐいぐい引いた。
「いいね。ねえ、べーへーさん、1000円貸して」
曳馬に言われ、なんの躊躇もなくべーへーは札を出した。貸しは、しめて三万三千円になった。
小屋入りの日は、よく晴れてとても寒かった。
劇場は雑居ビルの二階にあり、注意していなければ見落とす簡素な看板が出ているきりだった。劇場の前で芝居小屋の支配人から鍵を借り、念入りに挨拶をした。観音開きのドアを開くと、下駄箱があり、なぜか流し台とガスコンロが置かれた空間があり、その前を通りまたドアを開けると、板張りの手狭な教室程の空間がある。航介は『21衛門』にいた頃、劇場といえば観客席があって、一段高い舞台があり、袖幕、緞帳が揃った舞台しか知らなかったので、そのどれ一つなく本当にだだのハコである空間を『劇場』と呼ぶことが、少しばかり不思議だった。
公演の準備は、今日は舞台装置を組み、灯体やスピーカーを吊る『仕込み』と呼ばれる作業と、『きっかけ合わせ』という照明や音楽・効果音をつけるタイミングを劇場の機材を使って確認する作業がメインだ。明日は観客がいない状態で本番同様のことをする、演劇関係者は『ゲネプロ』と呼ぶいわゆるリハーサルをする。三日後にはいよいよ本番、初回公演は土曜日マチネ14時から、続いてソワレ19時、日曜日も二度公演をやってバラシだ。
ー準備には半年もかけたのに、舞台作ったら、たった4日でまたただの毎日か。
と航介は思った。昂る気分を抑えるために、あえて現実的なことを思わないと、浮かれて仕方なかったのだ。それは彼の美学に反する。
一番目のトラブルはその日の午後に起こった。
暗幕で窓を塞ぎ、天井から袖幕とホリゾント幕を吊るし、唯一のセットである高さ150センチ横98センチの窓を建て舞台は完成した。照明を吊るし、スピーカーを設置し、操作卓に繋ぎ、コードの処理をし点灯の確認にあたる。木箱を並べて観客席を作り、楽屋を整え、受付周りで折り込みに訪れる他劇団の人の対応をし、手が空いた人間から昼の弁当を食べる。ベーへーが掛け持ちの現場があったため(そこはちゃんと給料が発生する。彼の収入源だ。)、音響の設営は映画研究会の機材オタクの男の子に頼んだ。大道具の手伝いに、夏香の知人が三人来てくれている。進捗に問題はなかった。どんどん出来ていく空間に、航介はワクワクしていた。文化祭で教室にお化け屋敷をつくったあの感じに似ている。しかも彼等は学生と違い手際が良く、いかにもプロと言った感じがする。皆が協力しあい一つのことで出来上がっていく高揚感とか連帯感とか、そういうものに浸りながら彼は楽屋で唐揚げ弁当を食べた。動いているうちは寒くなかったが、座っていると冷え冷えとする。
鏡前でお弁当の集金を数えていた朱江に、
「寒くないですか?」と聞けば「すごく寒い、今、なっちゃんが貼るカイロ買いに行ってるの」と返事が返ってきた。じゃあ、と航介は躊躇いなくエアコンのスイッチを入れた。古いエアコンがガタガタいいながら、風を噴き出し始め次第にその風が温かくなって来た。楽屋のとなりにある畳1畳ほどの照明操作室で宇希が作業をしていた。
パンっと何かがはぜる音がして、辺りが急に真っ暗になった。
楽屋灯も、先程まで舞台を照らしていた光も廊下の電気も全て消えた。
「すみません!照明、落としました!」
照明室から宇希の焦りを含んだ声がした。
「復旧できる?」とマグライトで足元を照らした曳馬が入ってきた。宇希は「はい」と答えたが、曳馬はまだ微かに唸っているエアコンにライトを当てて、
「エアコン使ったの?」と朱江に向けてけんのある声で聞いた。朱江は小さくうなづき、航介は、
「俺がつけたんですが」と言った。
「受付で電気ストーブつけてるから、エアコンつけるととぶかもって言ったのに、なっちゃんに」
「こんだけ寒いからエアコンあれば誰でも付けるよ」と宇希が言い、朱江のごめんなさい、と言う声が暗闇の隅からこぼれた。
それから宇希と曳馬は復旧作業に入ったが、30分経っても1時間経っても照明はつかなかった。夏香が伝達せず楽屋を離れたことを泣きそうな顔で謝った。エアコンは使わないと、了解が行き届いてるものだと思ったらしい。2時間経ち、今日は来ないと言っていたベーへーが現場から駆けつけた。
「劇場の主電源自体がショートしてると思うから、小屋主さんに連絡とって事務所を開けてもらおう。」
ベーへーに言われ、宇希は支配人の携帯電話に電話をかけた。すぐには行けないが行くと返事をされた。マグライトの明かりしかない真っ暗な劇場の中で、手持ち無沙汰な時間が過ぎた。お手伝いの4人を帰し、曳馬が今後のスケジュールを仕切り直した。彼は慌てたり不安な様子は見せず、落ち着いてできることを片付けていく。しかし、復旧の見込みはあるのか、戻らなかったら本番はどうするのか、復旧したとして卓や灯体にダメージはないのか、弁償問題になるのか、様々な不安が皆の胸を去来していた。少しでも明かりを取り込もうと、窓の暗幕を取り払ったが、外はもう薄暗い。不安に呼応するように日暮れと共に、重い雲が立ち込め身を切るほど冷たい風が吹き始めた。
「明日は雪かもしれませんね」
夏香がビルの隙間に僅かに見える空を仰いで呟いた。誰も何も言わない。
4時間経過し、劇場の支配人が現れたので曳馬とベーへーが事情を話し始めた。事務所を開けて確認したが、支配人でも直せない。電気業者を呼ぶことになった。照明スタッフの責任者の宇希は頭を下げ続けるしかなかった。
「要は使い過ぎたんでしょ。うちの小屋初めて使う子たちだけど、西美薗くんがいるから心配はしてなかったんだけどね」
普段温厚な支配人は深くため息をついた。
「ねえ」と宇希に向かって何度目かの同じ質問をした。「照明触るの初めてじゃないんだよね?」「はい」「計算はしてた?楽屋も含めて。」「はい」
使わせるんじゃなかったと言外に言っている。いたたまれない宇希の横で、ベーへーは一緒になって何度も頭を下げた。その場にいなかった彼に落ち度はないのに、何度も頭を下げた。憔悴しきった宇希に「心配ないから」と小声で告げたのを航介は聞いた。
ーなんてという兄貴ぶり!
ドギースプリットのメンバーは、いくら各自の分野に精通しているとは言え素人なのだ。ベーへーだけがそれでお金を貰っているプロである。そういう人物が公演メンバーの中にいて、普段は途方もなくお人好しなのに、誰かが困れば傘になってくれる。彼がいることは技術的にも、精神的にもみなを支えているのだと航介は改めて思った。
夜の8時半を過ぎた時、劇場に明かりがついた。思わずみんながわーと声をあげた。支配人にもようやく笑みが戻り、
「明後日の旗揚げは頑張りなよ」と言い置いて帰って行った。
本日済ます予定だった『きっかけ合わせ』もろもろは、明日に回すことになった。明日の集合を朝7時とし、皆は解散した。
翌朝、二番目のトラブルが起きた。
劇場の入った雑居ビルの、建物の古さを感じさせる昔流行っただろうデコラティブなデザインの手すりがついた階段の下に皆集まっていた。早朝の空気は痛いほど冷たい。時間ギリギリに朱江が到着した。
「太一くん、裏にバイク止めてくるから、すぐ来るよ。」
曳馬のバイクに同乗し、劇場の通りで降ろされ走って来た朱江は、息を弾ませている。
「役者がバイク乗ってくるなよ。事故ったらどうすんの」
ベーへーが呆れ顔で言った。
「すみません」
朱江が謝まるとベーへーは口をもごもごさせた。美しい女に謝られると、何故か言った方が非があるように感じる。
「鍵、開けますねー」
夏香が先頭に立って階段を登り始めた。舞台監督の曳馬からスケジュールの確認をしてスタートだが、昨日の作業が押している分、皆気が急いていた。劇場の鍵を開け、エアコンは使わないと確認し合い、曳馬を待った。しかし、時間を過ぎても彼は現れなかった。
続く
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