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天気に心を支配されたくないけど、雨には敵わない【6/3】

あらゆるすべてをポジティブ変換するには限界があるなぁと、雨の音を聞くたびに思う。

だって、雨がいつになっても好きになれないのだ。人生で一回も好きになったことがない。いや、マラソン大会の前にだけ都合よく「雨よ降れ!」と祈ったことはかろうじてあったかな。

でも、基本的にはなるべく空には晴れていてほしいのだ。年々、雨音を聞くと反射的にすーんと肩が垂れがちになっているし、雨が降ってきた途端からもう、私の心のシャッターは垂直にシュッと降りる。速いのだ。落ち込むのには1秒もかからない。

「今日の天気は雨」というだけで、カジュアルに、ずんっと深いところまで落ち込めてしまう。自分はわりと「からあげくんがおいしい」などのささやかなことでスッと元気になれるほうで、それは自分を運営していくうえでだいぶラッキーと考えているのだけど、反面、落ち込むのもわりと簡単だ。

天気という、個人の力ではどうにも抗えないものに、心を支配されているような気がしていらっとする。あーもうっ!気にしたくない。願わくば、晴れの日も、くもりの日も、雨の日も変わらず、心穏やかに暮らしたい。年中無休、凪でありたいのだ。

そんなわけだからもう、雨のことを好きになってみようと何度か試みたことがある。「雨音って静かでなんだか落ち着くよね」という話を聞いたときには、「音が好きになれたら、もうばっちりじゃない?」と、自分もそうなりたいと願った。

でも、何度聞いてもやっぱり、ぽつぽつという雨垂れの音は好きになれない。ざーざーという激しい音だと、もう黙っていられない。静かにしてください!って叫びたくなる。きらいな音を力技で好きになるのは、琴線に触れるものをガラッと変えることとイコールなので、つまりどうにもこうにも、無理難題だったのだろう。


雨の日だからこそ聞ける音楽を手元に置くのはどう?と考えてみたこともちょっとだけある。

これは、自分で思いついたわけじゃない。青山みるく先生がサンリオのいちご新聞に連載していた『みるく・びすけっと・たいむ』のなかに、雨の日に聞きたい音楽について書かれたくだりがあったのだ。それをはじめて読んだころの私はたしか小学校低学年くらい。「雨の日に似合う」という視点で音を選べるっていいなぁ〜と憧れた。雨を、そんな豊かな視点で見つめることができるなんて。

でも、わたしは青山みるく先生には遠く遠く、及ばない。どう足掻いても、雨の野郎、ばかばかばか!って気持ちは止まらないのである。必要以上にばかばかばか!と連打するのを制御できない。雨の日特有の、水分を含んで、ぷくぷく膨らんでいるような空気も苦手だし、全身のいたるところを圧迫されているような感触もいやだ。

外に出ると、足元や服が濡れるのもいやああああ!ってなる。なのに、傘に片手をふさがれるのがイヤでつい傘をささずに歩いてしまう。なおこれを私はイギリス方式と呼んで愛しているのだけど、私たちの国には、小雨程度の雨でもしっかりと傘をさす人が過半数をしめるため、「え!大丈夫?」と心配されてしまうことがある。抗ってごめんなさい。そういえば昔、友人と3人で雨の日に出かけたとき、示し合わせたわけでもないのに、3人ともイギリス方式で、結構な雨なのに全然傘をさしてなかったのは楽しかった。

ちなみにレインブーツを買ってみたこともあったが、結局雨の日以外も履いてしまって、「雨の日しか履けない特別なブーツ」みたいな、特別な感じを出すことに失敗した。解散だ。

とはいえ雨が降らないと作物は育たない。ダムに水が溜まらない。日照りがつづいたら国土はどんどんカラカラになって、わたしたちの心身もカラカラになる。

めぐみの雨。雨とはめぐみ。めぐみとはすなわち雨。

そう唱えて心を平静にさせたいと願うのだが、今日もやっぱり、雨音を聞いて「くっそこのやろうーーー!」と思った。もういっそ、防音力の高い部屋に住んだらいいのだろうか。

とはいえ、世のすべてをポジティブにひっくり返すのには限界がある。雨音に噛みつきたい気持ちをこらえながら、思いっきりむすっとしている自分も自分のうちのひとり。むりやり全部ひっくり返して笑いつづける必要はないよね、そうだそうだこの野郎と許してしまいたい。

敵わないものには敵わない。


追記
悪口は控えたいのだ。
控えたいのだが雨のことは言いたかったんだ。
がんばろう梅雨。がんばっていこう梅雨。


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