ああ、運転したいと1日に数回考えている【8/2】
免許を取ってから1年以上が経った。
免許取得以降、クルマを運転したのは、種子島に行ったときと石垣島に行ったときの2回のみ。いずれも離島である。
離島での運転のいいところはまず、東京と比較すると、圧倒的にクルマの台数が少ないことだ。「いま、この道走ってるの自分しかいない……?」って瞬間がたくさんある。
で、景色がいい。緑の山の奥のほうに透明な海の色がチラ見えしたときのしてやったり感というのか、うわぁ見ちゃったぞ的な気持ちの溢れ方……というか、もっといい言葉選びはないのかな、自分の風情のなさが切ないんだけど、とにかく、カメラで連写したくなる(けど、残念ながらそんな余裕はないんだよね、運転中だから!)っていう瞬間がありすぎるのだ。
クルマが動いている途中に見える景色なので、なにしろ一瞬しか見られない。じっと目をこらしたくても、クルマを運転している途中だから、大胆なよそみはできない(命かかっているしな)
なんというか、そういう瞬間に出合えば出合うほど、うわあ!こういう体験をもっとしたい……という中毒感情が自分のなかに積み上がっていく。
そして中毒感情は景色以外でも発生している。上り坂をスッと登れたとき、カーブをきれいに曲がれたとき、まっすぐに駐車できたとき。小さな成功体験たちが積み上がっていくことでも、じわじわ、じわじわと「もしかして運転って……移動手段だとばっかり思っていたけどごめん、行為そのものを目的にしたくなるほどの楽しさがあるものなの?」って気づきが確信に変わっていく。
さらに。クルマに自分が慣れていく瞬間……というのかな、アクセルと自分の足がゼロ距離になる瞬間……というのだろうか。運転という行為では、頭で考えるよりも先にからだで「このクルマはこう動かすのがいい」と判断しはじめるタイミングがあるように思っており。
そしてその判断の精度が、頭で考えるよりもずっと高くなる、そんな分岐点があるように思っており。
で、なんというか、クルマに乗っていると、極論自分の身体への信頼が高まっていくような気がしてならないのだ。たぶん、信頼しすぎてしまうと、それはそれでよくないんだろうなぁと思いつつも。
むかし打楽器を学び始めてから、あるとき急に「太鼓の叩き方をからだが習得してくれたっぽいや」「ここから先、引き続き練習を繰り返していく必要はあるんだけど、これまでとは違うフェーズに入った」と感じた瞬間があったのだけど、あのときの感情にちょっと似ている。
この気持ち、まだうまく整理ができていないので、もうちょっと考えていきたいのだけど、とりあえず今日の時点ではこんな感じ。
とにかくいま、クルマに乗りたい気持ちにあふれている。カーシェアで最新機能を搭載した小回りのきくクルマに乗って、早朝の東京を走りたい。
こんな感情が起こるなんて、ほんの4か月前には考えてもなかったけど、そもそも4か月後の自分がどうあるかなんぞ、いちいち想像して生きていないので、そりゃそうだろうと思う。
未来を予期している暇があったら眠りたい。いや、いまでも十分睡眠とれているけど、それでも睡眠時間はあればあるほどいいのだ。
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