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分岐(小説10)

「どうせ最後はみんな死ぬんだから、周りの目なんて気にせず自分の好きなことやりなよ。」

僕はこの言葉が嫌いだ。

確かに生物である以上どうせ死ぬ。

それはどんな生物も例外なく訪れるもので、この主張自体は一理ある。

しかし、これは裏を返せば「どうせ最後はみんな死ぬ、絶対死ぬんだから、何をやっても無駄でしょ。」

ということになる。

僕はどちらかと言うと、後者の考えを方だ。


妹が死んだ。

涙が出るかなと思ったらそんなことはなかった。

あまり気持ちのいい奴ではなかったから、どちらかと言うとホッとした。

妹は将来のために色々と犠牲にする奴だった。

例えば、内申点を上げるために特にやりたくはないが生徒会に立候補するとか。

就活に有利だから厳しいことで有名な部活に入部するとか。

そうやって犠牲にしている間に死んでしまったものだから、少しやるせない気もする。

しかし、こういうタイプの奴は社会人になっても、老後になっても将来のために色々と犠牲にしていただろう。

結局のところいつ死んでも変わらなかったのではないか、そう思う。


そして、僕ももうすぐ死んでしまう。

妹は交通事故だったが、僕は病気だ。

病気は死ぬとわかってから、息を引き取る間にそれなりの期間がある。

だから、やり残していたこと、行きたかった場所に行ける。

とは言っても、そんなに自由に動き回れるわけではないから、ほとんどの夢は叶えられない。

それに、やり残したことをやったところでどうせすぐ死ぬ。

自分にお金をかけるなら、そのお金を寄付した方が何倍も世界の役に立つだろう。

だからといって、じゃあ全てのお金を寄付したのかと言うとそんな事はない。

なんかもったい気がしてならない。

結局のところ僕は、何をやるにしても理由をつけてやらないのだ。


医者から余命1年と言われていた。

しかし、宣告があってから15ヶ月経っている。

いつ死んでもおかしくはない状況なのだが、あまり死ぬ気はしない。

自分のことだからか、直感的にわかる。

「まだ大丈夫だ。」

聞くところによると余命宣告というのは、1年と言われたら1年で死ぬわけではないらしい。

過去、同じ病状の人がどれほど生きたかのデータがある。その人達の中央値を伝えられるらしい。

つまり、1年と言われたら半分は1年以内に死に、半分は1年以上生きるという事だ。

どうやら僕は後者らしい。

それならばあと、どのくらい生きるのだろうか。


僕はそれから5ヶ月、ベッドの上で生活した後、退院した。

治ったらしい。

もともと年配の人に多い病気のため、若い人は余命が長くなる傾向があるらしい。

それでも完治するのは珍しい事らしく、医者も驚いていた。

「とりあえず良かった。」という思いと、

「20ヶ月以上、特に何かをするわけでもなく、ただベッドに寝ていた。」という事実が残る。

僕は何をしていたのだろう。

これなら入院中、せっかく時間があったのだからやりたいことをやっておけば良かった。

時間を巻き戻したいとさえ思った。

でもそれは結果論であり、その時は治るなんて思ってなかった。

だから、結局時間を巻き戻したところで、どうせまた同じようになるだろう。

心にモヤモヤしたものが残る。

僕はこれからどう生きるべきなのか。もう答えはわかっていた。

あとは行動に移すだけだった。でも。

確かに生物である以上、絶対に死んでしまう。

しかし、それを理由に何もやらないのは違う気もする。

だからと言って、それを理由に色々好きなようにやるのも何か違うとも思う。

「人生一度きり、どうせ死ぬなら好きなことをしよう。」といって、多額の借金を抱え自殺した人を僕は知っている。

自分のやりたいように好き勝手やった結果、みんなに見放され、家に閉じこもったまま死んだ人も僕は知っている。

そして、将来に好きなことをするために、今を犠牲にした結果何も残らなかった人も僕は知っている。

じゃあどうすればいいのか。

僕は中途半端な答えしか出せない。

何もしないことはないけど、好きなようにもしない。

これが僕が出した答えだった。


病院を出て横断歩道を渡り始めた瞬間、信号が点滅し始めた。

渡ってしまうか、戻って次信号が青になることを待つか。

よくわからないが、これが今後の人生を変える分岐点だと感じた。

選択を急かすように、信号の点滅が速くなっている気がする。

僕はまだ迷っている。

結局、次の信号を待つことにした。

踵を返した瞬間、キーっと音を鳴らした車が僕にすごいスピードで突っ込んでくる。

僕は宙を舞う。意識は薄れていく。

「これはダメだな。」僕は直感的にわかる。

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