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最高評価(小説18)

僕は初詣があまり好きではない。宗教を信じていない人が年始だけ「今年良い事が有りますように」と神様にすがるのはどうかと思う。

それに、やる事と言えば「寒い中長蛇の列に並んでお金を払う」というまるで生産性のない動作。神様にお金あげるなら、その分だけでも僕のお年玉に足してくれれば良いのに。

それでも、家族みんなで折角初詣に行くのに、僕だけ家に残るのもあまり良いこととも思えず、結局は付いてきている時点で僕も同じかも知れない。

賽銭箱に向かって真っ直ぐ伸びる列の最後尾に並ぶ。どこからともなく『春の海』が聞こえてくる。琴と笛の音が心地よい。

僕はそんな音楽に包まれながら、年始だと言うのに去年の事を思い出していた。


音楽の授業中、1人ずつ前に出てみんなの前で課題曲を演奏する。その他の生徒は、自分の番以外は同じ曲を聴いているだけになってしまうため、5段階評価の採点をさせられる。

しかし、生徒の採点が全会一致の満点だったとして、演者の成績表の技術点が満点になるかというと、そうではない。結局は先生の独断で成績は決まる。

いわばこれは、みんなが一生懸命聴くためだけに行われる儀式。

だから僕は、全ての子に満点を付ける。

6つの項目、5段階評価。どんなにリズムが合っていなかろうが、間違いが多かろうが関係ない。

僕は30点満点中、30点を全ての子につける。

その様子を見ていた子が隣から言ってくる。「それだとちゃんとできている子が可哀想だよ」

確かに一理ある。僕の採点方法だとちゃんとできている子も、できていない子も同じ点数になる。だけどそれの何が問題なのか。

こんなものはどうせ成績には反映されない。それに、みんなそれなりに頑張っているのだから、みんな満点で問題ないのではないか。

隣の子は続けて「ちゃんとできている子がちゃんと評価されないのは間違っている」と言う。

確かに隣の子は、演奏が誰よりも上手かったし、いつもちゃんと練習していた。それが点数という形で現れていないことに少し腹が立っている部分もあっただろう。

あくまでも、ちゃんとできている子の代表として発言していたが、言葉に苛立ちを隠せていなかった。

僕はなんだか悲しい気持ちになる。

そんなに周りの評価が大切なのか。勉強やスポーツは親や先生、周りのみんなに褒められるため、認められるためにやるものなのか。

違う。周りの評価はどうでもいい。勉強やスポーツは褒められるためにやるものではなく、自分の成長を楽しむためにやるものだ。

今までできていなかったことができるようになった瞬間、自分が変わった瞬間が楽しいのだ、周りの評価は関係ない。じゃあ逆に隣の子は、褒められなければ何もやらないのか。

なんだか、目的を履き違えている気がする。

けど、そんなこと言ってもどうせ受け止めてくれないだろう。僕は小さく「今度から気をつけるよ」とだけ言った。


ある日、学校の廊下で女の子が顔を少し赤くしながら、俯き加減で僕の目の前に現れた。なんだかオドオドしている。

「ねぇ」と大きな声を出して僕に呼びかける。大きな声に自分でも驚いているようだった。

そうかと思うと、今度は小さな声で「今日髪型変えてみたんだ」と言った。

「だからなに?」と僕は言う。

女の子は少し面食らったようだったが、それでも続ける言葉を探していた。

しばらくして「似合ってるかなって思って」と小さな声で言う。

「似合ってると思うよ」と僕は言った。それを聞いた女の子は自分で聞いたくせに少し驚いていた。

そして、顔を微妙に綻ばせながらどのくらい似合ってるかを聞いてきた。

「100点満点だと思う」と僕はためらいなく言った。

すると女の子は顔を上げ、驚いた顔と笑顔を混ぜたような顔で僕を一瞬見ると、すぐに目を逸らし「ありがと」と言った。

そして、女の子は逃げるように、でも軽い足取りで教室に入っていった。

僕は不思議だった。オドオドしていた彼女が、数秒後には跳ねる感情の中にいたことが不思議だった。


みんなに満点を付けたことで、隣の子の演奏の出来、価値、質が変わったわけではない。

女の子の髪型を肯定したことで、髪型が変わったわけでも、可愛くなったわけでもない。

自分の力や身につけているもの、それは変わりないはずなのに、他の人の評価を見て、聞いて、怒ったり、喜んだりするのが不思議だった。


結局今もその理由はわかっていない。でも、今考えると日本人は神様を信じない代わりに、人の評価を信じるようになったのかなと思った。

他人の評価が神様がなのだとしたら、僕が評価してあげるから、僕にお金くれればいいのに、と思った。

賽銭箱まではまだまだ遠い。

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