PEOPLE 1『常夜燈』を聴くと涙が出ます

 なぜでしょうか。

 地獄の鬼も恐れ慄くほど血も涙もないことで有名な僕ですが、去年の三月(というかまさに今日から一年前)ごろは、異常にメンタルが落ち込む時期でございまして、ちょうどその頃、問題の『常夜燈』を聴き込んでいました。それまでは本当に、眼球が乾きすぎて救急搬送されたほどには泣かない人間だったのですが、この歌がメンブレを増幅させ、涙が止まらなくなったのです。
 今朝も、久々にこの曲を聴いてみたところ、案の定涙が止まらなくなり、10分くらいは呼吸もままならずに頭が痛くなる有り様でした。他の歌を聴いても改善しませんでした。
 この歌の歌詞が、どうも心にひっかかるのです。

 どの辺がひっかかっているのか整理します。してみむとす。

 「天国に学校はあるかしら」と歌って始まるのですが、ここで僕の意識は歌の中に取り込まれます。歌と同じように天国における学校の存在を考えるのです。現実世界から歌の世界への跳躍と同時に、生から死(厳密には死後の「イメージ」)への跳躍が起こります。かくして二段階に、それもほぼ同時に現実から隔絶された僕の意識は、非常な寂しさを覚えるのです。

 「皆んな優しさを受容してそっと心に釘を打つの」という歌詞があります。この歌詞に合わせてMV(coalowl神のすんばらしいアニメ)の女の子に釘が降りかかるのですが、そのシーンで非常に心が痛みます。優しさの受容とは、苦痛を伴うのでしょうか。

 そしてサビに入ります。ここが号泣ポイントです。「この世界には未来がキラキラとみえる人もいるというの」。僕は残念ながらそちら側ではありません。書きながら涙が出ています。特に去年の三月は、自分なんてお先真っ暗だと思い込んでいたこともあり、この歌詞が刺さって抜けませんでした。今も抜けてはいないです。抜くと、余計に出血しそうなので。刺さったまま、キラキラした未来を夢想する日々です。
 「食えぬものなど置いていかなくちゃ」と続きます。寂しすぎます。僕は何を置いていくべきなのでしょう。僕には諦めたくないことが幾つもあって、それでも実現できそうにない、とうてい食えそうにはないのです。無力さがただ悔しいのです。

 サビが終わりました。「才能って一体なんだろね」。僕が聞きたいです。

 「いつか大人になるならば忘れたことも思い出そう」。これは結構前向きになれる部分です。嫌なこと、忘れたいことでいっぱいの人生ですが、キラキラとした未来を歩むには、不可欠な要素です。ゆっくり思い出したいものです。

 そんな考え方を、「そんな些細な妄想で胸の爆弾は軽くなるの 先延ばしの朝を迎えて」と評します。未来をより良くしたい? 大いに結構。でも、今こそが全てだよ。そういったメッセージでしょうか。
 少し話が逸れます。イギリスのThe Smithsというバンドが、80年代にHow Soon Is Now?という歌を作っています。この歌は高校生のころの色々な場面で僕に活力と脱力を与えてくれました。「今にきっとよくなるよ、って言うけど、その『今』って一体いつやってくるのさ?」といった歌です。若者が抱えるこの焦燥感を歌っている点で、近しいものを感じました。若者に限らないのかなぁ、とは思いますが、少なくとも16歳から19歳の現在に至るまで、僕はこの感情を抱えっぱなしです。

 再びサビです。「欲しいモノなど君にあげるよ」と言いますが、「欲しいモノ」とは何でしょうか。歌い手が望むもの、それはキラキラした未来であり、才能であると考えます。しかし、それは歌い手には無い。おそらく、「君」には有るのです。だから「あげる」。先ほどは置いていきましたが、置いていくくらいなら君にあげよう、と思ったのでしょう。

 「臆病な自尊心」、これは中島敦『山月記』からの引用ですね多分。「尊大な羞恥心」がセットで登場します。『山月記』は高校の国語の教科書に載っていましたし、授業でも扱われていました。きっとPEOPLE 1も勉強したのではないかと思います。
 自らの自尊心を傷つけられまいと、臆病になってしまう心理だと考えていますし、授業でもそんなこと言ってたような気がします。詩作の才能が無く、下に見ていた同輩に追い抜かれた李徴は、科挙を突破した頃の自分を忘れられず、自尊心を肥大化させ、虎になります。それでも才能が無いなんて思いたくない、だから臆病になる。
 さて、この歌において、臆病な自尊心から立ち現れるものは「あの頃の僕ら」です。『山月記』になぞらえて、進士に上り詰めた頃の李徴、虎の本質と言い換えてもよかろうと思います。つまりは、置いていきたくない「才能」です。

 僕もまだ、自分には何かの才能があると信じています。

 置いていくべき「食えぬもの」、君にあげたい「欲しいもの」を、この歌では「常夜燈」と呼びます。花開かない、燈るはずの才能を恨む毎夜。
 まさに自分の状況に合致するのです。特に去年の春。現実と隔絶されたはずの僕は、実は、歌を聴いている4分半の間、現実をなぞっていたのでした。寂しさという効果だけは隔絶によってもたらされ、一層しんみりとさせられるというのがニクいですね。

 
 以上により、なぜ涙が出るか、ということが大体わかりました。
 ここまで読んでくださった方の中で、僕と同じように『常夜燈』で涙を流した方や、そうでなくとも、見聞きするだけで心を激しく動揺させられる何かをお持ちの方がいらっしゃったら、寂しさも多少は紛れるでしょうね。

 お読みいただきありがとうございました。

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