見出し画像

音楽教室に通うのは自分。いつだって自分が中心。園児だって。

20年間、リトミックの先生をやってますが、未熟だった頃の方が今よりずっと「わたしは先生!」って感じで、どんどんインプットして、知識と技術を子どもにおろさねば!と思ってました。

でも、今は全然そんな風に思わなくなりました。20年やっても、「教え切る」ってことは一度もなかった。音楽のほんの入口を見せるだけで、あとは
「子ども自身がどう受け取るか」、これでしかない。受け取った、わたしからもらったほんのかけらをどう育てるか。どうふくらませるか。子ども自身が握っている。

そんな風に思ってからは、ト音記号を教えることですら、自分の意識が変わりました。「これがト音記号だよ、覚えてね。正しく書けるようになってね」じゃなくて、このウネウネとした不思議なカタチが、子どもの心にどんな風に入り込むか、どんな風に命をもらうか、とても楽しみに見させていただいている、そういう感覚でお伝えさせていただいています。

だって、わたしにとって、ト音記号は「覚えなくてはいけない楽譜記号のひとつ」でしかなかった。でも、子どもたちは未知の、この不思議な記号と初めて出会うのだから、絵として感じても良いし、うねりを音楽として捉えても良いし、または知的に捉えてもいいし、本当に自由。知ってしまったわたしよりもずっと、それは尊い。

それから、「覚えたかどうか、正しいかどうか」を判断するのはわたしではないと思っています。だって、わたしの元で音楽を学ぶ短い間に、わたしが評価する必要なんか、一度もないから。わたしの手を離れ、ト音記号を自分のものとした瞬間から、ト音記号は子どもたちのものになる。

ある日、年長さんの生徒が保育園でト音記号、ヘ音記号、音符を描いた、といって画像を送ってくれました。

「ちゃんと書けたでしょう」「合ってる?」じゃなくて、この子は、自分のものとして、記譜をしたのだと思います。なんて美しい記号でしょう。わたしが教えたのは、もっともっと、幾何学的な記号でした。でも、この子の記号は、もっと曲線が美しく、線の表情も豊か。

わたしは、これが学びだと思います。

どんなに小さなことも、先生の手を離れた瞬間、「自分のものとして誇りを持つ」。いつだって先生の方が上で、指摘して直させる教育を続けていたら、「自分のト音記号」にはなりません。

画像といっしょに、音声も送られてきました。「先生、ピアノじょうず〜」って入ってました。この子の前でピアノを弾いてかれこれ4年くらい経つと思いますが、初めてそう思ったんだな。「ピアノの音色」がこの子のものになったんだな。

わたしは、「子どもが主体的に学ぶ」という尊い現象を、これからも見つめさせてもらおうと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?