見出し画像

多様性を認めるということは、受け入れるのではなく、お互い干渉しないこと

最近では多様性を認めることが、誰もが差別を受けることなく平等な社会や人間関係を構築していく上で大切だと広く考えられるようになった。多様性を認めるとは、性別、国籍、人種、年齢、宗教、そしてLGBTQなど様々な違いを理解しつつ、お互いを尊重しあって生きていきましょうというやつだ。

LGBTQとは、L(レズビアン)・G(ゲイ)・B(バイセクシュアル)・T(トランスジェンダー)・Q(クイア)の略で、セクシュアルマイノリティ(性的少数者)を意味している。「Queer(クイア)」とは、元は「風変わりな」という意味だったものが、インターセックス(性分化疾患という疾患。体内に精巣と卵巣の二つを持つ人や、外性器は男性なのに体内には卵巣があるなど、男女両方の身体の特徴を持ち合わせている症状)やアクセシャル(恋愛感情をそもそも持たない人、性的欲求を抱かない人)といったLGBTの範疇に収まりきらない、その他のセクシャルマイノリティを包括している。

当たり前だが、こういった人たちは最近になって突如現れたわけではなく、昔から存在していた。ただ、それを過去の権力者たちやその時代のコミュニティが認めることが少なかった。現代社会になってようやく、どんな外見の違いや宗教の違い、ジェンダー、セクシャリティの違いがあっても、人間は平等で機会均等であるべきであるという理念が広まった。

多様性を受け入れることは原理的に不可能

しかし。多くのひとが誤解していることが、「多様性を認めよう」ということを、つい「自分とは違う人たちでも受け入れるべし」と思ってしまっていることだ。これは絶対にできないことなので、まずははっきりさせておこう。

簡単なことだ。例えば、ムスリムのひとは豚肉を宗教上の理由で食べることができない。でも、それを「受け入れるべきだ」とするならば、ぼくらは豚肉を食べることができなくなる。そもそも、イスラム教であれキリスト教であれ、一神教を信じている人たちにとって、その神を信じていない、または違う神を信仰しているだけですでにその相手は悪魔的な存在なのだ。だから、彼らはそのままでは地獄行きになってしまうぼくらを救うために一生懸命になって信仰を勧める。しかし、信じていないぼくらからしたら、それは嬉しくない単なる善意の押し付けであって、ストレス以外の何物でもない。ただ、それでも仮に受け入れてイスラム教徒になったとしよう。しかしそうなると、今度は友達にキリスト教徒がいたとしたらどうなるだろう。「多様性を受け入れるべき」というのならば、キリスト教徒の教義にも従わなければいけない。それはどう考えてもできない。だから、受け入れるべきと考えているうちは、多様性を認めることはできない。

つまり、「多様性を認める」=「多様性を受け入れる」ではない。ぼくは豚肉を食べます、でもあなたは豚肉を食べない。ならばその違いを理解した上でお互いそのことについて干渉しないようにしようというのが、結局のところ、多様性を認めるということにほかならない。全人類、仲良くというのは理想論であって、現実はそんな理想はまず実現しない。ならば、せめて争いが起きないようにお互い干渉しないようにしようというのが、現時点での多様性を認めるという妥協点だろう。

だって、ぼくはセクシャリティ的には至ってノーマルなので、ゲイの友人がいるけれど、男同士のセックスは見たくもないし気持ち悪く感じる。これは生理的嫌悪だから受け入れることはできない。だからそういうセクシャリティがあることは理解はするし認めるけれど、お互いそれに関して干渉しないのが友情を続けていくコツだろう。AV男優のしみけんさんは好きな女の子のうんこを食べたいという性的嗜好があるらしいが、ぼくはそんなものを食べたいとも見たいとも思わない。ヴィーガンと呼ばれる肉を食わず、肉が入っている食物ばかりの地域での食事の際には、わざわざ肉を捨てたりするひともいるが、それも雑食のぼくからはまったく感覚としてわからない。ただ、そういうひとがいることは理解できるし、自分では同じようなことを受け入れることはできないが、干渉しないようにすることはできる。

そもそも多様性を認めることがはたして人類にとって幸せになるのか

ここまで多様性を認めるということは、現時点での人類の解決方法としてはお互い干渉しないようにするのが最適解と語ってきた。しかし、そもそも多様性を認めることって人類の幸せにつながるのだろうか。多様性を認めることでむしろ表現や食事など不自由になっていないだろうか。そういったことを考えさせてくれる最新の相反するふたつのデータがある。

まずひとつ目は、日本にとって不名誉なニュースとして、2019年12月に世界経済フォーラム(WEF)で発表された世界「男女平等ランキング2020」では、世界153ヵ国中、日本は121位と圧倒的な低さを露呈したデータ。

【国際】世界「男女平等ランキング2020」、日本は121位で史上最低。G7ダントツ最下位で中韓にも負ける

この結果から、日本においては「多様性」どころか「男女平等」すら実態としてまったく根付いていないことが判明した。

しかし、これが世界「幸福度」調査というふたつ目のデータになると、日本の男女格差は逆転する。「多様性」が叫ばれている昨今なのでこちらはあまりニュースになっていないが、データとしてきちんと出ている。

図録 男女の幸福度の国際比較

なんと日本の女性の幸福度は世界一なのだ(正確には女性の幸福度-男性の幸福度)。

国内での国が行った確度の高い調査でも、女性の幸福度の方が男性より圧倒的に高いのがわかる。

内閣府 幸福度と生活満足度(男女別)

なぜか、男女平等という観点では121位の日本が、女性の幸福度という観点では世界一になるのだ。これは色々と考えさせられるデータである。つまり、「多様性を認めること」は人間社会における機会均等や平等の理念に近づくが、必ずしもそれが幸せに繋がることはないともいえるのではないだろうか。

なぜ日本女性の幸福度が高いのか。これは多くのひとが議論しているテーマだ。

すもも氏は専業主婦というのが世間の目としては、女性だけに許されている点が大きいと結論づけている。たしかに同じことを男性がしようと思っても、まだまだ日本社会では厳しい目が向けられるし、進歩的な女性でない限り、積極的に男性を養おうと思うひとは少ないのが実情である。ホストに貢ぎまくるような女性でも、その推しがホストを辞めた途端に冷めてしまうという現象があるが、これは女性が同性に対してマウントを取って優越感に浸りたいひとが多いからだ。ほかの女性からもモテモテで羨むような男性を獲得したいだけで、それが単なるヒモ男となるとさっと気持ちが無くなるものらしい。これは男のぼくが言っても説得力がないので、ここは金美館通りの藤村さん(中の人が元ソープ嬢・キャバ嬢だったVTuber)の説明を貼り付けておこう。
(※ちなみに金美館通りの藤村さん、めっちゃ話が上手いので普通に他の動画も面白いです)

日本の女性の幸福度が高い理由としては、専業主婦という道が世間の目的に許されている土壌があることをまずは挙げたが、次に圧倒的な治安の良さもあるだろう。たしかにそんな日本でも卑劣な痴漢は多いし、夜道をひとりで女性が歩くのは危険だ。しかし、海外だとレイプして殺されて森に捨てられるなど、犯罪の凶悪性が日本とは比較にならない。イギリス在住ツイッタラーのめいろま氏などもよく口にしているが、日本人の女性が、海外旅行に行ったら見知らぬ男性がとても親切で日本の男性とは優しくて違うという発言を多くみかけるが、それは優しい顔をして近づいてきただけで多くの場合、実はひとけがないところに来た途端、レイプしようとしているだけなのだ。実際、そういった痛ましい事件が多々起こっている。ルーマニア日本人女子大生強盗殺人事件の衝撃は今でも覚えているが、本当に凶悪で理不尽すぎる犯罪だった。しかし、海外の多くがそういう場所の方が多いというのは間違いなく女性の幸福度とも関係してくるだろう。

あとは日本の場合、女性が無料や格安のサービスを受けられることが多いというのもある。映画館にはなぜか女性というだけでレディースデーという映画が安く見れる日があったり、ほかにも女性は無料だけれど男性は有料のサービスが多々ある。人権先進国である北欧のスウェーデンから来たオーサさんは、自分が女性というだけでサービスを無料にしてもらったり、片付けは男性だけということに関して、そのような自分が得する側であってもそれを明確な男女差別だと感じている。

画像1

また、そういったサービスだけでなく、介護や福祉の世界を実際ぼくが間近で見ていても女性にはケアが届きやすいが、男性にはケアが届きにくいというのがある。これは別にメンヘラ女をワンチャン狙おうという男が多いというわけではなく(それも確かに居るけれど)、女性だとケアする側も安心してサポートができるからだ。男性だとケアが必要なひとであっても腕力が強かったりすると、どうしてもサポートする側も避けるようになってしまう。

逆に、日本人男性の幸福度がそういった面で他国より著しく低くなっているだけとも見て取れる。日本社会全体的な意識として、女性は独り立ちしなくても許される風潮があるが、男性はいい年して親元で暮らしているだけで、「子供部屋おじさん」などと揶揄される。ニートと聞いてなんとなく男性像が浮かぶひとも多くはないだろうか。

しかしながら男女平等ランキングでは日本は最低レベルなので、バリバリ仕事がしたい女性にとっては、なんて不平等な社会なんだと思うだろう。ただ、そういった強者女性は圧倒的に少なく、国民の多くは弱者女性、弱者男性なのである。バリバリ稼げない弱者女性にとっては、相席屋などに行けば無料でご飯食べれるし、色々なサービスが受けられる。実際、ぼくの若い学生の女の子の友達に聞いた話なのだが、女友達とインスタ映えするようなアフタヌーンティーで映え写真を撮って5~6千円もかけたら、夜ご飯は相席屋でタダ飯で済ましていると言っていた。その子も「女はタダ飯できるからいいわー」と言っていた笑

弱者男性にとっては「男は稼いで当たり前」「一家を支えるのは男の役目」みたいな世間の目があるので、リストラや病気になって仕事ができなくなって収入が落ちると、収入が落ちた事実だけではなく、世間の目に追い込まれてしまい自殺しやすい。日本の自殺者は圧倒的に男性、しかも中年男性に偏っている。その年齢の男性になるとリストラや病気、若さで乗り切ってきたものが通用しなくなるからだ。

日本の世間の目の力を舐めてはいけない。今年、世界的な流行り病でも日本国民は自ら率先して自粛、自衛をした。ほかの国では個人主義で多様性が当たり前だから、マスクするのもしないのも個人の自由、集まってパーティーするのもしないのも個人の自由、そんな感じだから政府が警察を動員して外出したら罰金を課しているのだ。それに対してデモが起きたりしている(当然デモ隊はマスクをつけていない)。それが日本では世間の目の力が働き、自主的に子供からお年寄りまでみなマスクをして、ひととはなるべく距離を保ち、外から帰ってきたら手洗いをして清潔を保っているのだ。これはほかの国と比べると凄いことだ。それだけ日本社会において世間の目というのは影響力が未だに強い。

「多様性だなあ」とまったり感じながら、距離を置く

しかし、このままの日本社会がいいとはまったく思わない。世襲のじじいばかりの政治家では今の時代の流れの速さにまるでキャッチアップできていないので、男女半々でもっとわかいひとが政治家となるべきだし、バリバリ働けるひとは男女関係なく機会均等であるべきだし、男性でも働かないひとをヒモ呼ばわりしたり、ダメ人間扱いする、そういった世間の目も潰していかないといけない。

ただ同時に、多様性を認めることが完全な善だとも思わない。この世にはなぜそこまで他者に対してひどいことができるのかという邪悪なひともいるし、合わないひとはとことん合わない。多様性を認めたとしても、それを受け入れる必要は全く無い。お互い干渉し合わないのが一番良いのだが、自分がそういうふうに注意していても相手から干渉を受けることは多々あるだろう。そういう場合、合わないひととは「多様性だなあ」とまったり感じながら、距離を置くのがベターだ。合わないひととはどんどん離れていこう。

もし面白く感じたのなら100円でもサポートしていただけると、今後の励みになります!