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22夏旅行記⑩ エーゲ海の楽園!騎士の足音響くロードス島

1.ロードス島彷徨記

 一度地中海の地図を見てみればすぐに分かることだが、フェティエからロードス島はすごく近い。そんなロードス島へのフェリーは、夏のハイシーズンの予約の埋まり方がすごく、ひと月前に予約してギリギリだった。フェティエを9時に出発し、ロードス島には10時半に到着するから、およそ1時間半の船旅だ。
 フェリーの中では寝たいところだったが、ロードス島に着く前に読み終えなければいけない本があった。ロードス島に行くなら読んでおけ、とも言われた塩野七生の『ロードス島攻防記』で、読むのをついつい後回しにしていたせいで、直前に急いで読むはめになったのだ。幸い航行中に全て読み終えることができた。これ、めちゃくちゃ面白い本です。

 ロードス島に着くとすぐにギリシャの入国審査がある。ここ数週間のよくわからない入出国歴を示したスタンプをじっと見られながらも、何事もなく入国することができた。港からホステルまではかなり離れているが、タクシーを使う気にもならず、頑張って歩くことにした。
 歩き出してすぐに気づく。とにかく海が青い。まさにターコイズブルーといった色だ。北陸に生まれ育った自分が知る海とは、夏でも汚くて濁った日本海だ。それと比べると、まるで別物のような美しさだ。こんなに海が美しいのだから、当時の人々は海を渡って広がっていったのだろうし、「明るく開放的」なクレタ文明の芸術も発展したのだろうと感じた。こんなところに住めたら、気持ちも落ち込まなくてよさそうだ。

 ホステルに荷物を置いて昼ご飯を食べたあと、さっそく城壁の内側に広がるロードス島の旧市街(ロードス・タウン)に向かう。トルコも猫が多かったが、ロードス島も同じく猫が多い。

城壁の門の前に美猫がいた

 2度目になるが、ロードス島は、ギリシャ本土よりもずっとトルコのほうが近い(もう目と鼻の先だ)。エルサレム王国最後の都のアッコンが陥落した13世紀末以降、十字軍は完全にエルサレムにおけるプレゼンスを失った。居場所を追われたヨハネ騎士団がロードス島へやってきてからは、キリスト教文化圏とイスラーム文化圏のぶつかる最前線の場所となった。
 ヨハネ騎士団(ロードス騎士団)が築いた旧市街は高い城壁に囲まれており、はっきりと外部との境界が引かれている。先ほど触れた『ロードス島攻防記』では、スレイマン1世率いるオスマン帝国軍の攻撃に備え、この城壁の改良工事のためにヴェネツィアから築城技師マルティネンゴを招聘するというストーリーになっている。彼の設計した城壁の仕組みも作中で触れられており、そのおかげで城壁にも注目しながら散策することができた。本を読んでいなかったら絶対にスルーしていただろう。

 立派な門をくぐり城壁の内部へ入ると、外側とは全く違った雰囲気が漂っている。特に「騎士団通り」と呼ばれる通りの周辺は、まさにヨハネ騎士団の時代にタイムスリップしたかのような、今にも騎士団員の足音が聞こえるような錯覚に襲われる。「騎士団通り」は、当時の騎士団員の館が立ち並んでいた一角だ。騎士団は出身地によって8個のグループに分けられていて、それぞれに館が与えられていた。しかし、フランスとスペイン出身の団員が多かったことから、彼らには複数の館が割り当てられている。壁をよく見てみると、盾の形の紋章が彫られている。あまりにも厨二心をくすぐる装飾だ。こんな部分も含めて、ロードス・タウンはまさにRPGの世界のようだ。

美猫
良すぎる通り

 さて、通りを抜けると、ひときわ大きな建物へ行きつく。これは騎士団長、つまりグランドマスターが居住した宮殿だ。装飾的な外観ではないが、正門の上の紋章がかっこよすぎる。中は博物館になっていて、当時の部屋が再現されていたり、当時の鎧や武器が展示されていたりする。入館料は別の考古博物館と共通券で10€だ。
 正直展示自体はそこまで、という印象だったが、それでもまあまあ楽しめた。また、どういうわけか『ラオコーン』のレプリカがあった。『ラオコーン』は、数年前にイタリアへ行った際、フィレンツェでレプリカを見たあと、バチカン美術館で本物を見たという思い出があるので、「三回目だなあ」という気持ちになった。

 さまざまな展示の中で一番興奮したのは、鎧や衣装ではなく、ひっそりと並べられた破片の説明文を読んだときだった。世界史履修者ならわかるだろう、あの「ギリシア火」がこれらしい!

 騎士団長の宮殿を出たあと、近くの城門の石積みを見たり、裏路地に入ったりしてみる。旧市街は広いように見えて、意外と観光はすぐに終わってしまう。ふたたび城門を出て、ロードス島の代名詞的な、突堤に並ぶ古い風車を見に行くことにした。この風車は現在3基しか残っておらず、それもかなり古びていて、真ん中のものは羽がなくなっている。しかし、かつては14基もあったという。
 とりあえず突堤の端まで歩いてみたが、めちゃくちゃに風が強く、ワンピースで来てしまったせいでかなり危険なことになってしまった。ここはズボンで来るべき場所だ。あと猫もたくさんいた。

 早めにホステルへ戻って、明日の下調べをする。晩ごはんはまたスーパーでガーリックラスクみたいなものを買って食べた。やはり物価はトルコより高く、気軽に外食をできるような状況ではないため、緊縮財政。

2.エーゲ海は、青すぎる! 

 この日はロードス・タウンを飛び出し、ロードス島第2の観光地であるリンドスへ向かった。リンドスはロードス島の東岸、中央から少し下に行ったところにある街で、ロードス・タウンから頻発するバスに乗ると、1時間半ほどで到着する。

 バスに乗る前、SIMカードを調達しに行った。昨日は島内でSIMカードを見つけられず、オフラインにダウンロードしたマップを使っていた。しかし、ギリシャにはあと数日滞在する予定だから、ずっとSIMカードがないのは不安に感じたのだ。vodafoneの店舗に入ってSIMカードが欲しいと伝えると、店員はすぐに手際よく作業をしてくれた。接続の確認のために勝手にYouTubeアプリを開かれ、ホームの一番上にあったオモコロチャンネルの動画が流れる。オモコロチャンネルがこんなところで再生されるなんてなかなかないだろう。ちょっと恥ずかしくなっていると、「28€だよ」と言われた。高い!数日しか使わないのに高すぎる!と思ったが、もう引き返せるわけがなく、泣く泣く50€の紙幣を差し出すしかなかった。

注文がうまく伝わらず、暑さでデロデロのチョコパイを渡された

 やっぱり28€って高いよなあ、と考えつつ、車窓から時々通過する町やリゾートホテル、青い海、海岸線を眺めているうちに、バスはリンドスへ到着した。岩山に張り付くようにして、まばゆいほど白い建物が並んでいる。

 ロードス・タウンが石積みの薄茶色の街だったのに対し、リンドスはとにかく白い。サントリーニ島やミコノス島のような、エーゲ海の島といえば、という白亜の街並みだ。アクロポリスへ向かうには、麓に広がる白い街並みを抜け、アクロポリスまでずっと坂道を上っていく必要がある。迷路のような街は、中心部こそ飲食店やスーベニアショップでとにかく賑わっているものの、少し奥へ入れば静けさが戻る。狭い路地を勘で歩いていると、猫が現れた。猫はそのまま階段を上っていく。その後をついていったりついていかなかったりすると、だいぶ高い所まで来ていた。

こういう裏路地がいいよね
あっ!

 なんとかアクロポリスまでたどり着く。チケットは12€だ。高い!しかし、高台から眺める海は信じられないほど青く、これだけでもその価値はあるなと思う。リンドスも歴史が古い街で、ロードス・タウンに中心が移った後も、古代ギリシャ、ローマ、ビザンツ、ヨハネ騎士団、と島の勢力が移り変わるに伴い、天然の要塞として利用されてきた。
 だからこそ、アクロポリスはさまざまな時代の遺跡が重なったり繋がったりしていて、どう復元していくかがとても難しいらしい。かつてイタリアに支配されていた際に一部の復元が行われたが、杜撰な計画だったせいで、むしろ遺跡に損害を与えただけだったという。確かに、復元された神殿や柱を見てみると、素人目でも微妙かも、という部分があった。

青すぎる
思いがけずハートを見つけた

 リンドスからふたたびバスに乗り、夕方にロードス・タウンに戻る。確かにデイトリップにはぴったりの場所だ。晩ごはんに昨日の余りのパンとチーズに加えて、ハムとトマトを買って食べる。
 今回泊まったホステルは男女混合ドミトリーだったが、複数人の部屋を予約していた(2人きりよりはリスクが低いと思うからだ)。しかし、実際はアパートのようなタイプで、ツインベッドの部屋が2つに共用のキッチンとバストイレ、というかたちだった。2泊した中で1泊は自分だけで部屋を使えたが、もう1泊は男性と2人きりになってしまい、とても気まずく微妙な時間だった。あんまり「警戒していますよ」というポーズを出すのも失礼だし。こういう時の正解ってどうすればいいの?

3.アテネまでチートでビュン

 ロードス島滞在最終日、この日は夜にアテネへのフライトを控えていた。それまでは暇だ。せっかく共通券を買ったのだから、とロードス考古博物館を訪れることにした。グランドマスターの宮殿と比べると、やはりロードス考古博物館の方は展示が充実している。エーゲ文明のあたりから展示が始まるものだから、一つ一つ見ていくとキリがない。興味のあるところ以外は流し見状態だったが、館内が思ったより広く、意外と時間がかかった。
 特に興味を惹かれたのは、騎士団員の墓碑を集めた展示だった。当然ながら騎士団員は戦いで死ぬこともあるし、病気で死ぬこともある。立派な墓碑を作ってもらえるのは地位の高い騎士団員だけだった。その中には、歴代の騎士団長も含まれている。

 これはWikipedia知識によると、おそらくアラゴン王国の有力なフェルナンデス・デ・エレディア家出身の騎士団員の墓碑で、7つの城を模した紋章が刻まれている。この城の数は3や5のこともあるらしい。

 残念ながら説明文を撮り忘れたせいで誰の墓碑かは分からなかったが、このドクロが刻まれているデザインがすごくかっこいい。縦に大きなひびが入っているのも、偶然とはいえクールだ。

 そういえば、オスマン帝国に敗れたヨハネ騎士団のその後について触れるのを忘れていた。有名な話ではあるが、ヨハネ騎士団はロードス島を追い出された後、流浪を経てマルタ島を与えられた。マルタ騎士団と名を変えた彼らはマルタ島の市街を整備し、ロードス島に続いて世界遺産に登録されるような旧市街を築いた。そして現在までマルタ騎士団は存続しているわけで、改めてこのバイタリティーは凄すぎると思う。

 博物館を出た後、ロードス島のマグネットを買い、ぼちぼちロードス空港へと向かう。ロードス島からアテネへのフェリーもあるし、元はサントリーニ島を経由してアテネへと向かう予定だったが、あまりにも高いのでLCCでそのままアテネへ直行することに決めていた。
 1時間ほどでアテネへ到着する。もう夜も遅い。アテネの治安を考えると、空港の中にいたほうが安全そうなので、空港泊を決め込んでいた。空港泊の敵は、手すりのせいで横になれない硬い椅子だ。リュックを抱え込むようにして座り、行きかう人たちを眺めながらウトウトしていると、やっと朝になった。約10時間耐えたわけだ。じつに長かった。もう空港泊はしたくない、と思いつつも、数日後に控える22時間のトランジットのことを考えると憂鬱な気持ちになるのだった。何はともあれ、長かった旅行もこれが最後の街、またアテネへと戻ってきたのだ。

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