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22夏旅行記⑧ 猫と遺跡と枯れた城 イズミル、エフェソス、パムッカレ

1.ドブ臭いエーゲ海、スミルナの街へ

 カッパドキアからはるばる12時間、イズミルのオトガルへ到着だ。アナトリアのちょうど真ん中から、今度は西の果てまで移動したことになる。エーゲ海に面するイズミルは、イスタンブール、アンカラに次いでトルコ第三の都市だ。目立った見どころは少ない街だが、エフェソスやパムッカレと、ペルガモンといったトルコ屈指の観光地へのアクセスの拠点となる大都市でもある。この記事を書くにあたりWikipediaを見ると、「その美しさが『エーゲ海の真珠』と称えられる」とあるが、てっきり「エーゲ海の真珠」はサントリーニ島やミコノス島あたりかと思っていた。イズミルなんだ(クレタ島もそう呼ばれているのを確認、いったい何個あるんだ)。
 はじめ、カッパドキアの後はコンヤ、アンタルヤ、パムッカレ、と時計回りに移動するスケジュールを立てていたが、うまくギリシャへのフェリーと繋げられなかったため、旅程を変更したのだ。

 オトガルからバスとトラムを乗り継ぎ、ホステルへ向かう。ホステルはいかにも“ヒッピー”という雰囲気で、壁には曼荼羅みたいな絵があった。イズミルの中心地は、北のちょっとおしゃれなカフェも並ぶような地区と、南の市場やローカルな街が広がる地区に分かれている。エーゲ海沿いに長い遊歩道が整備されており、そこを宿を取った北から南まで3キロ近く、ずっと歩いていく。最初こそわくわくしていたものの、しばらく歩くと暑さでうんざりしてくる。エーゲ海は近くで見ると、意外と濁っていて汚かった。

若きアタテュルクが!

 道路に停めてある車全てに、明らかなエロのマッサージの名刺が挟まれていた。落ちていたやつを記念に持って帰った。イスタンブール、そして内陸のカッパドキアの後にイズミルの街を見ると、その生活感や坂の上までずっと立ち並ぶマンションという景色が印象的だった。

コナク広場と時計台、右奥に見える取り壊し中の建物がよかった

 ひたすら歩いてやっと、南の中心となるコナク広場Konakに到着する。時計台の写真を撮ったあと、近くの市場へ突っ込んでみる。イスタンブールのグランドバザールとは違った、もう少しローカル感のある市場だが、怪レいブランド品が大量に売っているのは変わらない。アクセサリー店やスマホケースの店などもあって、なんとなく台湾の士林夜市を思い出した。

 市場を冷やかして、イズミルのメインディッシュ、スミルナSmyurnaのアゴラへ到着した。スミルナ(スミュルナ)とはイズミルの旧名で、ギリシア時代はあのホメロスも住んでいたらしい。スミルナの名前は新約聖書にもみられ、『ヨハネの黙示録』に初期キリスト教の七つの教会の一つとして名があげられている。
 近代、この地を巡ってギリシャ=トルコ戦争が勃発し、ギリシャが焦土作戦を展開したために、スミルナのアゴラ以外には遺跡が残っていない。観光地が少ないのもそういうわけだ。一方で、トルコにおけるキリスト教徒虐殺の舞台ともなり、この地でキリスト教徒への報復として殺されたギリシャ人やアルメニア人は3万人にのぼるともいう。

 確かにスミルナのアゴラの規模は小さく、訪れる観光客も数人程度だったが、このアーチがいくつも並ぶ光景はかなり特徴的で面白い。かつては3階建ての市場となっていたそうで、このアーチの下を人々が行き来していたのだろうな。現在見られるものは、地震の後に五賢帝のひとり、マルクス・アウレリウス・アントニヌスが再建したものだ。
 遺跡をすべて見終わったあと、夜行バスの疲れを持ち越さないように早めにホステルへ戻る。相変わらずヒッピーなホステルでは、当然ながら他の客に馴染めるわけもなく、サイケなベッドで就寝。

 翌朝、朝食兼昼食を、近くのロカンタ(食堂)でとる。トルコのロカンタは基本的に、並ぶ料理を店員によそってもらうスタイルだ。適当に注文したところ、またレバーを引いてしまった。ブルガリアでも同じことをやらかしたのに。この色の肉は基本レバーだと学んだ方がよさそうだ。しかし、意外と美味しかったし、店主が冷製スープとデザートのバクラヴァまでつけてくれた。

2.猫と遺跡とセクハラじじい

 この日はイズミルの中心駅、アルサンジャックAlsancak駅から鉄道で、エフェソス遺跡の近郊の町のセルチュクへ向かう。チケットは22TLくらいで、確か途中で乗り換えた気がする。昼すぎにセルチュクの町へ到着し、坂の上にあるホステルへ向かっていると、いきなりでっかいアタテュルクに出迎えられた。

ナショナリズムやね

 セルチュクでは2泊した(今思うと1泊で十分)。2泊連続の予約が取れず、近くのホステルに1泊ずつした。Ali Baba's HouseとBoomerang Guest Houseに泊まったが、金額はそう変わらないものの、個人的には前者の方がよかった。朝食を食べる共用空間の雰囲気も良く、落ち着くことができた。

 セルチュク1日目は、遺跡に行く前にエフェソス考古博物館を見て予習することにした。入場料は50TL。あまり大きな博物館ではないものの、さまざまな時代の出土品が展示されている。一番の目玉は、やはりアルテミス像であろう。アルテミスはギリシャ神話の女神だが、もとはギリシャ神話が成立する以前の土着信仰の上に成り立った女神であると考えられている。特にエフェソスではアルテミス崇拝が強く、大地母神として信仰されていたらしい。

 セルチュクの近郊に遺構だけが残るアルテミス神殿は、かつてピラミッドやバビロンの空中庭園とならび、世界の七不思議に数えられていた。アルテミス神殿は名声を得るための放火によって破壊されたが、エフェソスの人々はその犯人の名を決して残さないことを決めたという(結局ストラボンによって残ってしまったが)。ニュージーランドのテロに対する首相の声明を思い出し、かなり印象的な説明文だった。やっぱり昔からこういうことはあったんだなあ。

乳房か、蜂の卵か

 博物館を思ったより早く見終わってしまったため、博物館前の公園のカフェで昼からビールを飲んで、夕食はホステルのオーナーが経営している店でケバブを食べた。

 次の日、共用スペースで良い朝食を食べた後、荷物を預けてからやっと遺跡へ向かった。遺跡はセルチュクのオトガルからミニバスが出ており、片道10TL、10分程度で到着する。遺跡の入場料は200TLで、ちょっと高いな~と思いつつも、この規模の遺跡なら逆に安いと思うことにした。遺跡の入り口はちょっとした売店やカフェが道の両側に並んでいるが、価格を見てみればやはり観光地価格だ。ちゃんと町から安い水を持ってきているからね。
 遺跡は現在、海岸から5㎞程離れた場所に位置しているが、かつては港湾都市だったという。土砂の堆積で海岸線が変化したのだ。遺跡を見る限り、周りには山や木々が広がっていることも加えて、ここに海があったとは想像できない風景だ。入り口からしばらく歩くと、当時のギュムナシオン(体育館みたいなもの)、ネクロポリス、そして円形劇場の跡がある。この円形劇場は25000人程度も収容できたらしい。代々木第一体育館よりもずいぶん大きかったんだな~。

 そして、遺跡のハイライト、セルシウス図書館だ。当時はアレクサンドリア、ペルガモンと並んで世界三大図書館に数えられており、蔵書は1万冊を超えたという。規模自体はさほど大きくないものの、復元された外壁には4人の(レプリカらしいが)ソフィア、アレテー、エンノイア、エピステーメーの女神が並んでおり、コリント式の柱や壁など、細かいところまで意匠がこらしてある。猛暑というほどではないが、やはり日を遮るものはなにもなく、白い石からの反射光でかなり暑い。持参した水をガブ飲みしながら遺跡を巡っていく。

これは「徳(アレテー)」の女神、アレテーはソクラテスも追及したテーマだ

 エフェソスはかつて、クレオパトラとアントニウスが滞在した町でもある。この通りからクレオパトラの妹であるアルシノエ4世の墓が発見されたというので楽しみにしていたが、暑さで完全に脳の機能が停止してしまい、思い出したのは遺跡を出た後だった。
 また、なんとあの聖母マリアの家もエフェソスの近くにあるのだが、アクセス手段がタクシーかヒッチハイクぐらいしかないため、諦めてしまった。今思えば、さして高くもないのだからタクシーを呼べばよかったと思う。旅先でケチるのは後悔しか生まないとはいえ、際限なく使ってしまうわけにもいかない。貧乏バックパッカーにとってそれを完璧に区別するのは、なかなか難しい。

おそらくヘルメス?

 休憩所の自動販売機を覗いてみると、コーラのあまりの高さにぎょっとして、喉の渇きもぶっ飛んだ。日本基準でも高い。入口はそれぞれの端に一つずつあるが、遺跡とセルチュク間のミニバスは片方の入口にしか発着しないため、ふたたび遺跡の中を歩いて戻る。
 セルチュクに戻ったころには午後だったので、その辺の店先でビールを飲む。観光で成り立つ町とはいえ、やはりここはトルコ、女が外で一人で飲んでいるのはかなり目立つ。暇そうな店員にバックギャモンに誘われたが、全くルールを理解できなかったため、2回やってどちらもボロ負けした。

 さて、一つ忘れられない思い出がある。町中に残る水道橋を見ていたところ、「エフェソスの発掘をしている」「日本大好き」という男に絡まれ、最初は親切にガイドをしてもらったものの、次第に様子がおかしくなっていき、最終的にはめちゃくちゃに触られたりキスされるなどの(少なくとも日本の感覚ならば)セクハラを受けた。本当に無理!と思いNo!No!No!と連呼してやっと解放されたが、やはり旅先で出会う男性と二人きりになるのはよくない、という教訓となった。自分の防犯意識が低かったとしか言わざるを得ない。ツーショットを撮ってと言われたので、いまだにスマホの中にそいつの写真がある。もし周囲にエフェソスに行くという人がいたら、その写真を見せて注意喚起をしておこうと思う。

 とはいえ、セルチュク自体は小さくのんびりしていて、過ごしやすい町だった。猫がとにかく多い。エフェソス考古博物館でも中庭に猫が入り込んできていて、観光客に大人気だった。しかも人懐っこいのでとにかくすり寄ってくる。猫嫌いな人は大変かもしれないな。ちなみに、エフェソスの遺跡内にも猫がいる。

右上が博物館の中にいた猫、真ん中が遺跡にいた猫

3.これじゃパムッカレじゃなくてパムッ枯れだよ~

 セクハラおじさんのいるセルチュクから、パムッカレの近くの街であるデニズリdenizliまで、電車で3時間半くらいだ。料金は53TLで安いが、自分が乗車した際は地元の人たちで席が埋まっていて、ずっと立ったり窓のふちに座ったりとなかなか疲れる道のりとなった。確実に席を確保するという点では、バスを使った方が楽だろう。デニズリ駅の近くのオトガルから、パムッカレ行きのミニバスに乗る。
 パムッカレはトルコ屈指の観光地であり、その美しく白い石灰棚から水色の水が流れ落ちるという写真は誰しも見たことがあるだろう。しかし、近年はずいぶん水の量が減少し、サジェストには「がっかり」という言葉が並ぶ事態となっている。事前にこの情報をつかんでいたこと、せっかくなので行っておこう、というテンションだったことが、結果的にはいい方向に働いた。期待値を下げておいた方が楽しいことも往々にしてある。

 入場料はパムッカレとヒエラポリス共通で200TLだ。めちゃくちゃ人が並んでいる。現地に行かないとなかなかイメージが湧かないだろうが、白い石灰棚が広がる範囲は意外と狭く、遠くから見ると山の斜面に張り付いているような光景だ。あまり良くない例えをすると、カマキリの卵みたいな感じだ。
 入場口はパムッカレ側とヒエラポリス側にあり、バスを使ってアクセスする人は多くがパムッカレ側から入ることだろう。入場後は靴を履いてはいけないから、裸足で石灰の斜面を上がっていく。しかし、足の裏が痛いし、お湯が流れているので転びそうだし、反射光はすごいし(サングラスと日焼け止めは必須だ)でなかなかの苦行だ。約1キロほどの坂を裸足で歩くわけだが、上りはともかく帰りのことを考えると憂鬱になってくる。

これは綺麗な部分

 綺麗な部分だけを見ると、まるで雲の上にいるかのようで幻想的なのだが、石灰棚に水が流れ落ちる様子が見れるのはほんの一部だけだ。あとは全部枯れており、黒くなっていて薄汚い。わずかに水がある部分も、人工的に水が張られている。パムッカレは「綿の城」という意味だが、これではまさにパムッ枯れ、だ(これが言いたかっただけ)。
 水が枯れてしまった原因は、ひとえに観光のための温泉水利用にある。現在は水の量が調整され、一時期よりマシになっているとはいうが、あまり感動はない光景だった。

 なんとか一番上までたどり着いて靴を履き、その向こう側に広がるヒエラポリスを散策する。パムッカレと併せて世界遺産となっているヒエラポリスは、もとはペルガモン王国が建設し、のちにローマ帝国の温泉保養地として発展した街の遺跡である。見どころの一つの円形劇場は約15,000人を収容できたといい、エフェソス遺跡のものと比べると客席の傾斜がかなりきつくなっている。一番上から見下ろすと恐怖を感じるくらいだ。しかし、やはり音はよく響く。こんなところで劇を見たら迫力が凄いだろうな。

後に見える水色がパムッカレ

 ヒエラポリスは広い敷地の各所に遺跡が散らばっていて、エフェソスと比べると復元も進んでおらず、回るのも大変だ。しかし、それはそれで探索しているという気分になれて楽しい。暑すぎるのはどうしようもないが。ドミティアヌスに捧げられた門から町まで、フロンティヌス通りという道が続いている。現在は一部の柱廊が残るに過ぎない。

85年にドミティアヌスに捧げられた門
柱廊かと思ったら公衆トイレだったらしい

 あまりの暑さに水が足りなくなり、しかたなく激高の売店で水を買う。いくつか売店を覗いたが、観光地価格の無慈悲さに閉口して水をガブ飲みするだけで我慢した。ヒエラポリスの端の方(パムッカレから一番離れた場所)にはネクロポリスが残っており、そこで墓や棺桶を見るのを楽しみにしていたが、暑さと疲れで断念してバス乗り場へと向かった。夏のトルコは魅力的だが、遺跡巡りに関しては一番向いていない季節であろう。
 水の枯渇から「がっかり」と言われがちなヒエラポリス-パムッカレであるが、自分にはパムッカレよりむしろ、ヒエラポリスのほうがずっと魅力的でロマンのある場所と映った。しかし、あまり歴史に関心のない人やもっと復元された遺跡を多く見ている人にとっては、だだっ広い跡地としか映らないであろうことも理解できる。

 デニズリのオトガルへ戻り、預けていた荷物を受け取って、次の街へのバスへ乗り込んだ。次の街は、この旅行においてトルコ最後の街となる。地中海に面するリゾート地、フェティエ(フェトヒエ)Fethiyeだ。


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