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メガネかけながら、メガネ探してるみたいな話

「作家になりたい」
「成功したい」
「しあわせになりたい」

ここnoteにいる人なら、人生のどこかの地点でそう願ったことがあるのではないだろうか。

「ねぇ、おかあさん、もし自由になったら何がしたい?」

長女にそう聞かれて、気づいたことがある。

それは、この質問の答えでもあるんだけど、

「別にないよ。今も自由に、したいことをしてるから」

だ。

「作家になりたい」

そう漠然と思っていた頃は、作家になるということは、書くことで稼いだ金で生活を成り立たせることを意味していた。

でも、わたしが「作家になりたい」とイメージしたときの「作家」とは、どんな条件が満たされたときを指すのだろう?

「成功したい」の「成功」、「しあわせになりたい」の「しあわせ」は、どんな状態を指しているのだろう?

いろいろな言葉に置き換えられる、その朧げな感覚の輪郭をなぞる。

と、浮かび上がってきたのは、

「頭に浮かんできたイメージを、表現したいという衝動のままに形にする」

その夢を描いていた本人が、日々寝る間も惜しんで突き動かされていた衝動を昇華し続けることだった。

それだけで食べていける職業になるのも、それで社会的に存在が認められる成功を目指すのも、それで親も安心できるしあわせも、

今していることを、続けるための口実で、目指しているものの本体じゃない。

たとえ売れても、そのせいでもう飽きた作風で自分の過去のコピー作品を作り続ける労働地獄に閉じ込められるのは、嫌だ。

そう、願いの焦点が見えたとき、願いはもう叶っているのだということに気づいた。

「いい仕事に就きたい」

も、似たようなものだろう。

きっと夢の多くは、今感じている、最も好ましい感覚を、味わい続けるための手段なのだ。

今も、こうして毎日心地よいUIに導かれてキーボードを叩いている。

わたしは作家としての自分を感じるし、毎日誰かがふと覗き込んで足跡を残してくれる、作家としての成功感覚を味わっているし、書きたいときに書いて、書きたくないときは休む、自分の生活も守られている。しあわせだ。

「作家になりたい」
「成功したい」
「しあわせになりたい」

原稿用紙を買うまでもなく、無限に文字が綴れ、出版するまでもなく自分の手を離れた場所にストックしてもらえる今、これは叶い続けている現在だ。

わたしは夢なんか手にしていない。もう、叶った夢を生きている。

なんでも買ってくれるなら原稿用紙、無人島に持って行くなら紙とペン。
とにかく書く道具に飢えていた小学生のわたしには、こんな贅沢は想像もできなかった。

なんたるしあわせ。
なんたる成功。
夢を叶え続けてくださるnoteにありがとう。

って、テンション高過ぎますけど大丈夫ですか?

はい。
半徹にチューハイ注ぎ込んで、完全に酔っています。
最高の気分ですみません。それでは、お先におやすみなさい。

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自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。