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「相手の声に耳を傾ける」という、戻れない道

相手の立場に立ち、相手の気持ちを尊重したうえで、協力できる関係を目指すコニュニケーションの手法が、重要視されている。

命令形ではなく、お願い。

YOUメッセージではなく、Iメッセージで。

真のニーズを引きだす。

オープンに自分を語る。

情報を共有し、具体的に、何をしてほしいかを伝える。

色々やってきて思うのは、そのどれもが、けして自分のニーズ、提案、必要な協力を得られることを約束しないことだ。

むしろ、これらのメッセージを語る根本には、自分がその執着を手放し、相手と自分との関係の間に立ち上がってくる新たな答えの持つ可能性に、身を投げ出すという態度が横たわっている。

でも、コミュニケーションの方法を探してすがる人の心の根っこには、自分のニーズを満たしたい、自分の提案を通したい、協力が欲しいという切実な希望があるから、そのミスマッチはいずれ限界にぶつかる未来が予感されていることに、最近になって気がついた。

平和的なコミュニケーションは、交渉のテクニックでもなければ、人を動かす技術でもない。

こうした手段を探す人と手段の持つ本質のすれ違いは、使う側はけっこう無自覚で、使った結果、相手が自分の思い通りの行動をしないと「この手段はダメだ」と他を当たろうとなりがちだ(あるいはまたは同時に、相手の欲求を全部聞いていいなりになってしまう)。

まあ、自分もその一人だったわけだけど、解決しない構造の問題こそある価値と富の源泉で、だからいろいろなコミュニケーションのあり方が装いを新たに色々生まれ続けているんだろう。

ただ、結局のところ、尊重するという道は、折り合いがつかなければ、諦める、という道なのだ。

お互いのニーズが全く重ならない、願いは同じでも手段への信頼が重ならない、感じ方、望む生き方の違い、発揮できる能力の違い、課題そのものをどのくらい重要と感じているかのギャップが、尊重しあうコミュニケーションの過程で明らかになり、最終的に全部分かった上でNOと言わなければならない瞬間がやってくる。

それは、もう戻れない道で、伝われば分かってもらえると期待しているであろう、深い関係であるほど、それは辛い。

何も知らずに、相手はわからずやだと愚痴を言いながら、分かり合えないけど、いつか分かり合えるかもしれないから一緒にいる。分からないからこそ待てる道、希望を持って関わり続けられる道もあるのだ。

自分にはもう歩けない美しい道を遠くから見ながら、自分の歩く道も、それなりに美しいものであって欲しいと願って、今日も洗濯を干す。

自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。