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知のジェットコースターで遊ぶ
知ってると、分かってるは違う。分かってるとできるは違う。できると、なってるは違う。
なにかが自分の一部になるに至る階段はけっこう細かい。
登るとなると想像以上に道は長くて、知ってると分かってるを取り違えたり、分かってるだけなのにできる気になったり。
何とか背伸びして一回できただけのことを、あたかもそれが自分だなんて勘違いしてしまうことすらある。
実例をあげるのは憚られるくらい、この手のはずかしい記憶は数知れず。
立派な思想に「触れた」だけなのに、我が身をすっとばして周りの人の至らなさが見えるようになって、散々世の中にケチをつけたあとで酔いが覚め、鏡を見て真っ青になった経験が「皆無」だなんて、ちょっとでも本が好きな人なら「ありえない」とすら思う。
もしないと言う人がいるなら、それはきっとまだ鏡を見ていない人か、過去の恥を一生口外しないと決めた人か、鏡に映っているのが誰なのかわからないくらい鏡が汚れている人だろう。
実際、知の階段は恥でできているんじゃないかって思うくらいだ。
お気に入りの戦国武将を見つけて、自分を戦国武将のように感じる「知る」=「なってる」の倒錯の極みにはじまり、
武将がその時代で何を成し遂げたのかを学び、「知る」の先に「分かってる」があることに気づき、まだ「知る」段階にいる、本からの引用だけで語る仲間を見下すようになり、
武将の偉業に似た、ミニチュアのようなちいさな「できる」体験を、「なってる」と都合よく解釈し、自分と重ね合わせて悦に浸る。
しかし、実際は生活のほとんどを親の世話になっている小さな子どもに過ぎない。
は〜・・・・・(恥)。
自分自身の「知の階段」が目に見えないのは本当に厄介だなと思う。知った気になっては、我に還ることはいまだにたくさんある。大人になってもたいして登れている気がしない。むしろ、登る階段が上がった分、我に落ちるときはジェットコースターに乗った気分ですらある。
神さまの目から見たら、「別に階段登れなんて誰も言ってないし」「その登ったり降りたりが、面白いんでしょ?」という話な気もするけど、そんな神さまの目を借りて、自分で自分を笑いながら生きていけるのが、大人になることの楽しさなのかもしれない。
自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。