ぼくらは波打ち際に家を建て、山頂から帰る
海派、山派という言葉がある。
犬派、猫派という言葉がインドア系の二つの派閥なら、アウトドア系の二大流派だ。
わたしは山派の猫派だけど、山派を自称するとき、どこが嘘があると感じてしまうと感じてしまうのは、わたしだけだろうか?
それは、海派は最終的には住まいを海の見える街に移すことに憧れているのに対し、私を含めた山派の大半は、山頂の山小屋に住むことを尊敬はしても憧れない。(※筆者の狭い人間関係における個人的感想です)
山派は、あくまで行って帰ってくる、非日常としての山を愛しているのだ。
海派の生き様はまったく逆だ。
彼らは、海の恐ろしさを知ってもなお、海のそばで暮らす。危険が日常と隣り合わせ出ることを厭わない。
山派が、山の恐ろしさに対して万全の備えを持って挑むことに、ある種の喜びを感じるのとは、全く別の感覚なのだろう。
ただ、山派がまったく海に興味がないわけではなく、海に入るときまで、地図を防水バッグに入れて持参したりはしない。
海派だって、山に登るときに海パンでは臨まないはずだ。
このふたつの流派は、人間の自然との関わり方の両極を象徴しているにすぎない。
なんというか、霊峰はあっても、霊海はないっていうか、母なる海ではあっても、母なる山ではないっていうか、
どちらも畏れを感じる大いなる存在なんだけど、山を目指しても、帰るのは海なんだなっていう。
だとすると、海派もまた、山はわざわざ登る必要なくね?って思ってるだけで、かっこいいと尊敬しているはずで、山派も海に入るのは冷たくて波が怖いと思っているだけで、美しいと思うし、愛している。
なんだろう、単なる重心の違い?耐えやすい恐怖の方向性の違い?書いているうちにだんだん分からなくなってきた。
短い時間じゃ考え尽くせないけど、山に憧れるくせに山には住めず、山より危険がないわけじゃないのに、海辺に帰ってくるっていう、
なんかそこに人間のかわいらしさを感じたのだった。
自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。