既存の言葉がせっかくの新しい概念を歪ませちゃうことってあるよね。
今日は、思ってることを簡単にメモをとるように書いてみようと思う。
できるだけ短く。
なぜなら、今日中に書き上げたい他のものがあるからだ。
夫婦関係に相当する言葉は、最近「パートナーシップ」という言葉に置き換えられているシーンを多く見る。
それは、婚姻届を出しているか否かで線をひかないこと、性別を問わないこと、というより「広義」なものにするためにそうしているんだろうと最初は思っていた。
しかし、そこで語られていることの中身を見ると、自分自身が「夫婦関係」という一見より狭義で使い古された線引きで引き受けているもの、学びをもたらしているものと比べると、むしろ「狭い」と感じることが多い。
というのは、「パートナーシップ」としてパートナーとの関係を語るとき、その人が生まれ育ってきてかつ「現在も繋がっている」血縁関係、友人関係などを「ないもの」として切り離しているように見えるからだ。
「どんな友達がいて、どのような親に育てられたかは関係ない」
その言葉は、それらの周辺の関係性でその人を勝手に「評価する」という面においては、望ましいものだろう。
けれども、誰かとつながり、共に生きるということは、現在進行形で影響を与え合っている、「パートナー(自分)以外の人間関係ともつながる」ということだ。
それは、人脈のように、自分にとって都合のいいときだけ接続できるようなものではない。
パートナーの親が病気になれば、大切な人の大切な人として、ケアをすることになるだろう。
パートナーの友人の信条やライフスタイルに一緒に感化されることだってあるだろう。
それは、内的なものだけではなく、限られた自分の物質的時間的資源も分かち合うことを意味する。
だけど、これがなぜか「パートナーシップ」という概念のナイフを使うとき、パートナーだけをその周辺から切り取って、一対一の関係性にフォーカスし、たった一人とだけ分かち合い、分かり合えればうまくいくような気がしてしまう。
そこでは、夫や妻という言葉が持つような、背後に背負った文化や血縁関係は「見え」ない。パートナーシップという言葉は、夫婦という言葉に比べると、遥かにカラッとして、軽やかに「見える」。
誰にも邪魔されず、自分も変わることなく、ありのままの二人でつながれる「ように見える」。
でも、そんなのは幻想だ。
制度としての役割に縛られる「必要がある」とは思わない。でも、人間関係的な意味でも、「人は土から離れては生きていけない」ものだ。
それは、制度の外にいようが、性別を問わなかろうが変わらない。むしろ一般的でないからこそ、そのつながる過程は、多くの学びと深い経験をもたらすだろう。
その、せっかくの深い経験の可能性を、切り落としてサッパリした気分になり、それでもまとわりついてくる切り離すことなんてできない関係性を邪魔で厄介な「敵」に見せてしまう道に導きかねない「パートナーシップ」という概念名は、長い目で見てその概念が示したかったつながりを「破壊」してしまうように思う。
なぜなら、パートナーの一部を「敵」としてしまったら、丸ごとその人とつながることができなくなってしまうからだ。
制度にとらわれず、意味としても広い意味で表現するのに、「パートナーシップ」というたった二人しか人影が見えない言葉は、不必要なまでにファンタジックで、もしかしたら適切ではないのかもしれない。
もし、「夫婦」のような制度・性別感もなく、「パートナーシップ」のようなつながりの切り落とし感もなく、特定の人同士が、その人に連なる継続的な影響関係をひきうけることを相互に了承している関係を言い表す言葉があるなら、私もそれを採用したい。
…結局100字くらいのメモになる予定のことが、引っ張り出してみたら1500字超えてた。
既存の言葉で新しい概念を言い表すことの難しさよ。
自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。