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エンパシーサークルで聴き分けてもらった、心の不協和音

シンパシーとエンパシーの違いを明瞭に説明してもらったのは、MBCCのトレーニングプログラムのなかで紹介されたこの動画が最初。

昨日は、それとは別の場なんだけど、エンパシーサークルというNVCのワークに参加した。

別の予定で途中退出する必要があり、心苦しくもほぼ自分が体験するだけで終わってしまったんだけど、自分が話したモヤモヤごとには、色々な感情が混じっていることが感じ取られていて、そのどれもが「そうだよなあ」と感じるものだった。

エゴにもレイヤーがあって、マズローの言うところの生理的欲求に紐づいたニーズもあれば、安全でいたい欲求、所属と愛をたしかめたい欲求、承認してもらいたい欲求、自己実現したい欲求と、

満たすほどに新たな領域をひらきながら、常にそのどれもが、満たし続けることを求めている、というイメージを持っている。

けして土台にある欲求は完了しているからメンテナンスフリーというわけでもないし、あたらしく登場した欲求の方が立派だとか大切だっていうわけじゃなくて、欲求のバリエーションが増えたってだけ。

つまり、育つほどに欲求は積み重なるから和音になって、聴き分けにくくなるからややこしいんだなあって話。

でもね、昨日そのエンパシーサークルやって、聴き手はそれぞれ、自分と響き合うところがあったのか、それとも感じやすさの高い感情だったからかはわからないけれど、

単音だったり、二つの音だったり、ともかく自分が感じている和音を分解した音として響いてるだなあって思った。

いくら内省しても、どの音がどのように伝わっているかは、自分の位置からはわからない。

シンパシーは、相手に対して湧きあがった、自分の感情を述べたもの。

よく共感的態度として言葉にされる、「大丈夫?」「大変だね」は、あくまで「自分」の感情だ。

一方、エンパシーは、相手の立場に自分を寄せて、相手の感情を感じてみることだと言う。

ただ、自分はその体質と分類されそうな気はあるんだけど、それって結局自分の遺伝子と文化と性別と肉体に制限された自分の内側で感じる以上、相手の感じていることと同じことを感じているわけじゃないから、けして「相手の気持ちがわかる能力」なんかじゃないとも思っている。

だから、エンパシーサークルで、相手の感情を自分も感じられたとは思わないけれど、自分の不協和音を分解してもらえたのはすてきな発見だった。

わたしのモヤモヤ話には、「恐怖」や「痛み」、「弱さ」に分類される音があって、それは、「身を守る場所」「お互いが満たされていること」「聞いてもらえること」「自己受容」「気楽さ」というニーズが隠れているように見えたという。

これを、冒頭のマズローの欲求階層に照らし合わせると、それらの音は安全の欲求と所属と愛、承認、自己実現といろんな層の声が混じっていることが改めて感じ取れた。

反芻すると、自己実現したい気持ちはあるけど、その前にもっと深いところにある欠乏感が叫んでいるのかも、とうっすら感じていたメンテナンス不足に気づかされたのでした。

って、時計見て呆然。5分日記って、もはや嘘になりつつあるな、どうしよ。

自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。