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「誰にでもできる仕事」の正体


言葉の表面的な意味と、含まれている意味のずれが大きい言葉のことを考えるのが好きだ。

それは、結果が思わしくなかったときに「伸び代がある」と言ったり、理解に苦しむ、付き合いにくい相手を「個性的」と言う、配慮からの「意識的な言い換え」じゃなくて、

「一生のお願い」

みたいに、言っている本人が、言葉の上部と秘められた意味の乖離に無意識なまま使っている言葉のことだ。

で、なんでまたそんなことを朝イチで今日書こうかと思ったのは、

「誰にでもできる仕事」

という言葉が、このリストに加わったからである。

誰にでもできる仕事ってなんだろう?

AIにそのうち奪われる仕事?

でも、この言葉はAIなんてない頃からずっと使われているし、主に使われるシーンは、自分が仕事を選ぶとき、あるいは続けてきた仕事を離れようと思ったことを説明するときだ。

けして就職活動の際に、客観的な指標として用いられる言葉じゃない。
自分自身に照らし合わせた感覚から生まれる、きわめて主観的な言葉だ。

じゃあ、これって何を真に意味しているんだろう?

主観的な言葉は、自分が使いたいシーンを主観的に思い出すことで想像できる。
これまで、自分がやってきた仕事で「誰にでもできる仕事だ」と感じた瞬間を可能な限り並べる。
そして、「誰にでもできる仕事だ」と感じる前の時点でのその仕事への印象と比べる。

結果、浮かび上がってきたことは、「そこに未知があるかどうか」

それは、その仕事を「再現性のある仕組み」として分解し、何が制御可能で、何が制御できないかを理解し、制御できることに関しての習得が終わり、制御できないことに関して、その仕事で発揮できる権限での限界を知ってしまった状態。

制御できない問題を解決するには、別の要素や技術が必要で、その仕事にしばられる限り、その問題は解決しないと知ったがために、そこで頑張ることが「作業」にしか見えなくなってしまう。
再現性のある仕組みで行える作業は、誰にでもできる。
そういうことに、自分の時間を使うことに、意味を感じられなくなる。
そして、ここでは制御できない問題をどうにかする仕事をしたいと思い始める。

つまり、夢と希望を使い尽くしてまった、そしてその仕事ではできないことに新たなる「未知」すなわち夢と希望を見出したことを意味するんじゃないかっていうこと。

もちろん、「誰にでもできる仕事」と言葉にするとき、こういう感覚は表に感じられてはいないと思う。

未経験でもパッと見でそう感じる場合は、それが正しいかは別として、その仕事の作業フローが見え、権限のない領域の問題が重く感じられたり、単純に、興味をそそられる未知がない、その先に夢も希望も感じられない、ということなのかもしれない。

朝5分、多分過ぎたけど勢いで書いた走り書きだから、なあんの責任も取れない、これもまた超主観的な見立てに過ぎないけど、自分の仕事をだれかに「誰にでもできる仕事」と言われたとしても、それは本質的に職業そのものを侮辱されたわけではない、

それってあなたの感想ですよね問題であることをここに記して、いいかげん着替えます。

自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。