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なにひとつ具体的な言葉で語れない中年期の衝動

※この毎日投稿は、Stand.fmの音声投稿をふりかえりながら、補足や一歩踏み込んだ内容を書いています。

自分のささやかな自信と安心の根拠だった習慣を捨てる。

誰がそんなことを望んでするだろうか。

でも、それをせずに進めない一線があるような気がしている。

なんて言えばいいのだろう。

自由に走り回っていたつもりが、あるところまでくると、それ一上先に進めなくて、縄のついた首輪がピンと張っていることに気づく感じ。

ああ、ここより先にはどう頑張ってもいけない。
これがわたしの境界であり限界。

どんな頸木も、制限も自分が勝手に作ったものだという。
そんなことは知っている。
でも、それによって守っているものがある。

そして、それに守られているのは、わたしだけじゃない。
と思っているのも、思い込みに過ぎないことも知っている。
でも、存在するものには、存在させる理由がある。その理由が、わたしには必要なのだ。

未成年の頃は、「自分に打ち勝つ」と言って、意志よりも生まれつき馴染みがある生死に触れる動物的な欲望を「自分」と捉え、それと「闘って」いた。

けれど、中年期に入って思うのは、より原始的な自己を押さえつけ、管理下に置いている「意志」の、

源泉にある「価値」を次々と破壊されていくことばかりだということ。

そして、「価値は意志の土台」だからこそ、自らの「意志で壊す」ことはできず、意識できない価値よりも深い部分にある衝動が、「どうしようもない状況」を人生に招き入れる。

その状況は、反対側に置かれた存在にとっては、「意志で打ち勝つ」ために招き入れられたものである。

その存在に向け、わたしが「意志で打ち勝つように」と感情を込めて励ますとき、わたしは、意志に同化した自己が退場させられることに怯えた叫びを聴く。

目の前の人に言っているようで、その言葉は意志を支える価値を壊そうとする、制御できないほど深い場所にある、同化しうる別の自己に向けられているのを感じ取る。

その滑稽さに気づきながらも、それを止めることができない。

こういう幸福とは最も遠そうな道に豊かさと生きることの本懐があると腹をくくり、同じ状況を逆サイドから招き入れた相手の「意志」の獲得に協力することで、最終的に自分の「意志」の土台を破壊させるという現象に至らしめることこそが、「中年の歩き方」の王道なんだろうなあと、つらつら思う。

なんて、今はもう、家庭にいる人間が周りの具体的な出来事をあれこれ書けないような状況になってきた。抽象的な言葉でしかもはや、公共の場で言葉にすることはできない。

だから、この投稿は、よっぽど同じことに心当たりがある人以外には、何の意味も形成しない、「深夜に頭がバグっているヤバい人」の怪文章なのかもしれないけど、

そういう、「言いたいけどピッタリ分かられても困る案件」が多そうな貴族の世界で、比喩で語る言葉の芸術の世界が花開いたのは当然だよなあと、感じ入って、古い時代に思いを馳せたりしている。

と、もはや本当に頭が混線して何が言いたいのか分からなくなってきたのでこれで終わります。

要点は、もう限界が目に見えているので、毎日アウトプットする形を見直しますという話でした。


自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。