パッケージ化できない娯楽
土曜の日記をすっぽかしてしまったので、畑休みのはずだった今日、埋め合わせに書いてみる。
畑サークルに、新メンバーが加わった。早速年会費を集めたり、もうひとりの新メンバーのための畑の整理を手伝ったり、そこで出た雑草をもらって自分の圃場のマルチングをした。
圃場のアブラナ科の野菜たちが菜花をつけ始めていたので、茎ブロッコリーと併せて収穫。肥料置き場でみつけて飼育していた3匹のカブトムシの幼虫が、1匹死んでしまったので、肥料ごと圃場に返して手を合わせた。
敷き草の影から覗く、フキノトウを発見。去年土手から移植したフキが季節のサイクルを安定して巡りはじめたことに感動する。
また、秋じゃがを食べ尽くしてしまったので、キクイモを掘り返して回収。
秋に掘り起こすときは大変だったのに、一冬放置した茎は簡単に抜けた。冷害を受けることもなく、みずみずしい姿である。
土手のフキノトウは茎を伸ばし、もう花を開こうとするところ。2週間前に収穫していただいたときとは、もう風景が変わっている。
去年と同じ場所に、福寿草が2輪咲いていた。雨降りの予報にビビってカメラを置いてきたことを後悔した。
サークルの大先輩が作ってくれた冬を越した甘味の結晶のような焼き芋を食べながら、休憩タイム。灰の上で燃えるお菓子の空箱をじっと眺めながら、「面白い燃え方だね」「印刷のインクのせいかな」とたわいのない会話をする。
箱の真ん中から斜めに捲れ上がるように燃えて、カステラみたいな艶のあるおいしそうな茶色に焼き上がっていく箱の姿が目に焼きついた。
収穫物を人数分に分けながら、野菜を包む新聞の記事を読む。もうどのくらい前のニュースなのかわからないまま、障害者雇用の代行業者の記事と管理職になったら家庭崩壊して結局辞めた女性の記事を小松菜とのらぼう菜の間から読了した。
ゲームやアミューズメントパークのように人間が設計した好ましい刺激のための娯楽の場所は、刺激がもらえる瞬間とローディング時間や行列に並ぶ時
間のような狭間の時間とのギャップが大きい。
一方、こういう畑作業で焚き火で箱が燃える様子を見たり、野菜の量を調節しながら配るなどの娯楽は、ゆるい刺激が続く感じでギャップが小さい。
低刺激の娯楽は、商品にならない。福寿草が去年と同じ場所に咲いているとか、紙箱の燃え方が面白いなどの発見は、約束できないし「いつもの仲間」と分かち合うことに喜びがある。
商品として取り扱われる領域が、物品から体験へと拡大しても、パッケージ化された途端に消滅してしまう価値がある。
計測されてないだけで自分だけじゃない、それなりのボリュームの人がもう、「パッケージ化された娯楽」を卒業し始めているんじゃないだろうか?
仕事もそうだ。
一回性のある仕事がしたい。クライアントと自分との間でのみ意味を持つことをしたい。まったく非効率なんだけど、まだない、そして2度とないものを一緒に立ち上げるようなことにワクワクする。
なに贅沢な夢物語言ってるの?そんなので食べていけるの?って言われそうだけど、これはきっと間違っていない方向性だという、よくわからない確信がある。
自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。