【12. さよならの理由】

彼が仕事から帰ると、
「お帰りなさ~い。すぐに出来るから。先にお風呂入ってねっ」
晩御飯の仕度をするレイカの笑顔が待っていた。
お風呂で汗を流した後、小さめのテーブルで向かい合い、二人は一緒に食事を採る。
「いただきま~す」
健康を意識して、かなり薄味にしているらしい。
だが、醤油と辛味以外の調味料を滅多に使わない主義の彼にとっては、丁度良い味付けだ。
それに、互いの過去や生い立ち、他愛ない話題が食卓に彩りを添えた。
「ごちそうさまでしたぁ~」
の後は、一旦コーヒーブレイク。
本当は一緒にまったり寛ぎたいところだが、レイカは出掛ける準備中。
着替えを終え、髪を解かし、薄化粧の仕上げにグロスを少し厚めに塗って完了。
すると二人が同時に時計を確認する。
…もう時間かぁ…
彼は少し寂しそうな顔をしながら言う。
「あとは俺…片しとくからいいよ?」
「うん…ありがとっ…」
レイカは笑顔を見せる。
そして二人は手を繋ぎながら
「行ってきます」と「行ってらっしゃい」
の口づけを交わした。
小さく手を振る二人を玄関のドアが遮る。
遠ざかるヒールの音。
…カチャッ…
ドアに鍵を掛けた彼は、左手の人差し指をそっと唇に添えた。
そこにはレイカとキスした履歴。
さっきレイカがしていた唇の真似をする彼。
一方で、エレベータの鏡を見ながら、グロスを均等に唇で延ばすレイカ。
共にその顔は恥ずかしそうで嬉しそうだった。

彼は流し台の洗い物を済ませた後、歯磨きする間の少しの時間だけTVを観る。
部屋を暗くしてベッドに横になると、枕に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
そうして、いない筈のレイカに包まれながら、彼はいつの間にか早めの眠りに就く。
彼が再び目を覚ますのは、狭いベッドの中で
「ただいま」と「おかえり」
のキスを交わす時…。
そんな日々を二人は送っていた。


楽しい時間は、何故こうもあっという間に過ぎ去るのだろう…。
レイカと一緒に暮らし始めてから、早くも1ヶ月が経とうとしていた。
彼の仕事にもある程度目処が立ち、出張の終わりが見え始めてくる。
それは同時に、レイカとの別れの日も近付いていることを意味する。
…どうすればいい?どうしたい?…
彼は自分自身に問い掛けるものの、ただ焦るばかりで一向に答えを見出せずにいた。

「今の仕事が終わったら……もうこっちに引っ越してきちゃたら?ここで…一緒に暮らさない?…いや?」
レイカは真剣に、彼を誘う。
そして、過去に関東支社に配属されていたことのある彼も
…またこっちで仕事したい…
という真剣な思いが大きくなっていた。
そんな彼にとっては、願ってもない機会だ。
「嫌じゃないよ…」
彼は敢えて断定する言葉を避け、曖昧な答えを返しただけで、一緒に暮らす前提での話しを始めた。
「そしたらさぁ…家賃と水道光熱費は折半で、駐車場代は俺が払う…っていう感じで、どう?」
「うん、私は全然良いよ。…じゃ食費は?」
「食費は毎月幾ら…って決めて、半分ずつ出し合えば良いんじゃない?…あ、でも、俺の方が食うからなぁ…たまに外食もするしね…」
「それなら…うちで食べる時は、1食いくら…って料金制は?一食500円とか?750円とか?キリが悪いから1,000円でもいいよ?」
「...え~?それって高くない?…って言うか、何で段々高くなってくの?」
「だって、私が作るんだよぉ~?東京は物価が高いから仕方ないのっ。後でダイソー行って貯金箱でも買ってこよっかな~?」
そんな冗談を言って大笑いしながらも、二人は確実に、具体的な生活の話しを進めていった。

そして彼の仕事の話しも。
「もしこっちで仕事が心配なら、私の知り合いにあなたと同じ仕事してる人がいるから紹介するよ?訊いといてあげよっか?」
「大丈夫!仕事は気にしなくて良いよ。自分で何とか出来るから…」
その返事はレイカを少し不安にさせる。
…断るってことは、やっぱりこっちで暮らす気なんて無いのかな…
とレイカが思うのも無理はない。
しかし、彼はそこまで深く考えてはいなかった。
単にレイカに頼る必要がなかっただけ。
正直なところ、彼は仕事について全く悩んでいなかった。
それは関東でも余裕でやっていける充分な自信があったから。

人並み程度は、知識と技術を持つ彼には、以前より他社からの誘いが少なからずあった。
今回の出張でも、下請け二社の社長や専務から
「独立してこっちに来ない? その給料で使われるのはほんと勿体無い…。仕事なら幾らでもあげるから…」
と声を掛けられていた。
勿論、社交辞令の場合もあるが、例え鈍感な彼であれど、顔色を見れば真面目な話しなのかどうかくらいは判断できる。
それに、今回の下請け会社は、今まで彼が使ってきた中で最も仕事が出来なかった部類に入る。
それが彼の仕事に対する自信と独立する意欲を更に掻き立てた要因である。
と言うのも、その会社…
基本的に作業のスピードが圧倒的に遅く、前例にないミスを何個も何種も並べ揃え、仕上がりが半端なく汚ない。
雑さ、いい加減さには、呆れ果てるほど。
本当なら最初から彼が自ら独りでこなした方が気が楽だし、余程スマートで綺麗、さらに余計な経費も削減でき、一石四鳥ほどの利点があるのだが、彼の所属する会社は、彼のそんな意見などに興味がないらしい。
きっと何かしらの忖托が働いているのだろう。
ともあれ、今は可能な限り早く帰りたい彼は、お昼休みや休憩時間を返上してチェックや修正作業に勤しむ毎日。
疑問に思うのは、これだけ程度の低い下請け会社だというにも拘わらず、いつもその社長が
「忙しい、忙しい…」
と口癖のように言っていること。
実際、頻繁にTELが鳴り、その仕事の依頼を断る場面に彼は何度も遭遇している。
ということは、この業界に関してのみ言えば、関東という場所はそれだけ仕事が溢れている証拠なのだろう。
試しに、算数の苦手な彼は、今の給与とここで独立した場合とを比較してみた。
単純にかなり低く見積もった月の収入から、生活費、保険料、税金、仕事に係る諸経費…等々を差し引く。
どう計算してみても、手元に残るお金は今の2倍から3倍になる。
「本当にこっち来ようかな…って考えてるんで、もし、その時はよろしくお願いします…」
既に彼はその社長や専務にしっかりと頭を下げていた。
それと、以前から親しくしている他の会社の常務にも連絡済み。

それをレイカに説明すると、
…だから断ったのかぁ…
レイカは、ひとつ溜め息を吐き、ようやく納得した笑顔を見せた。
「そっかぁ。解った。頑張ってねっ。応援してるから!」
「うん…ありがと」
そう言いながら彼はキスをしてレイカに覆い被った。
共に着ていた服を脱ぎ捨てる。
今日は、日曜日…。
二人が、夜中までずっと一緒に過ごせる日。


彼の仕事は客先へ引渡す準備段階に入り、出張の残りはほんの僅か…
というところで、上司から電話が入った。
「次の現場決まったぞ。渋谷の…」
突然、彼の東京出張はもう1ヶ月延長となった。
自動的にレイカと一緒にいられる時間は加算され、優柔不断な彼が、最終決断するまでの猶予ができた。
準備のために数日間は仙台に戻らなければならないが、またすぐに戻って来る。

彼に課された問題、
彼女か…
レイカか…
その2択のうち、どちらを選ぶべきか…
自分の気持ちを確かめる上で、良い機会でもある。


数日後…
これから彼は、レイカと離れ、暫く振りに彼女の元へと向かう。
「絶対帰ってきてよ?待ってるから…」
レイカは心配そうに訊く。
「大丈夫、大丈夫。すぐ帰ってくるから」
彼は楽観的。
…私が言いたいのは、そういうことじゃなくて…
「彼女のとこ…………帰るんでしょ?」
「うん。一応…」
「仲良くしないで……」
レイカが一番感じているのは、
…彼女と会ってSEXなんかしたら、彼の気持ちがリセットされちゃうかも…
という不安。
「うん、絶対しないから…」
と言った彼自身が、もし賭けをするとなれば、絶対“仲良くする方”に違いない…。
「信じてるから…。ドア閉まっちゃうよ?」
「うん、じゃ、行って来るね。ちゃんと連絡するから。待っててね」
彼はレイカに見送られながら、金曜日の午後一番の新幹線に乗り込んだ。

その1時間と20分後…

惰性で走る景色の流れは、徐々に緩やかになっていく。
街並みも田園風景から住宅街へ。
3本の電波塔が左手に見えてくる。
金属の摩擦音が聞こえ、建ち並ぶビルがゆっくりと目の前を通り過ぎた。
暫く振りの仙台駅。
ホームへと降り立った彼は、大きく深呼吸。
…やっと着いた…
そこから足早に地下鉄南北線へ乗り換え、一旦会社に立ち寄った彼は、
「おぅ、ご苦労さん!無事終わったか?」
と出迎えた上司に、とんでもない下請けを宛がった文句と、当たり障りのない業務報告とを済ませた。
それから、書類の提出や領収書の清算など、面倒な手続きを終え、その日はようやく帰宅。
彼は、真っ直ぐ彼女の部屋へと向かった。
彼女はいない。
TV横の壁にピンで刺されたシフト表のコピーを見た。
…中番…
会社からの道すがら、そして部屋に着いてからと、何度か電話したものの電話には出てくれない。
…バスの中?もう帰って来ても良さそうな時間…
帰りを待つ間、DVDを観ることにした。
彼女の下着が入っているチェストの、下から3段目の引き出しを開いた…。


随分前に2人はこんな会話をしている。
「これって…誰からコピーして貰ってるの?」
「会社のゆかりちゃん…」
「ふ~ん、そうなんだぁ…」


…女性は、違和感を敏感に察知する…
と常識のように言われているが、それは女性に限ったことではない。
残念なことに、彼もその認知能力があるようだ。
特にSEXをすれば、その疑いは確信に変わる…。
それに加え、
付き合いだした当時から2人の間に働く“運命的な力”
も彼の認知力を大いに後押しした。
良くも悪しくも、神憑りと呼ぶに相応しい
『 タイミング 』


例えば…
彼女の誕生日。
その日、彼は休みで、彼女は仕事。
迎えに出る時間まで、彼女の部屋で待っていると、大きな鉢植えの花が配達された。
仕事を終え、助手席に乗り込んだ彼女に訊ねてみる。
「そう言えば、お花届いてたよ。誰から?」
「………分かんない…」
「ふ~ん、そう…」

例えば…
いつか…彼は仕事で駅前のビルに来ていた。
その日、彼女は休み。
「銀行に行く…」
と、朝に彼女が言っていたのを覚えている。
もしかすると、
…帰りに車で送ってあげられるかな?…
とか
…お昼を一緒に食べたり出来ないかな?…
などという淡い期待を抱いていた彼は、ちょうど昼前に仕事が終わり、移動中の車内から電話をしてみた。
すると、彼の隣を走る車の中で、笑顔で会話をしている女性の携帯が鳴る。
バッグの中の携帯を一瞥し、サイドボタンを押して会話の邪魔をする着信音を消すのが見えた。
そしてその二人の唇は、こう言っていたように見えた。
「出なくていいの?」
「大丈夫…気にしないで…」

例えば…
予定よりも随分早く仕事が終わった日、
…仕事終わったら、TELちょうだい…
とだけメールして、彼女を驚かせようと、職場の駐車場の影になる位置に車を停めて待っていた。
しかし、彼の電話が鳴ることはなかった…。
そして、職場から出てきた彼女が、当然のように別の車に乗り込む姿を、彼は見ていた。
そのあと、何度電話しても、彼女は出ない。
ずっと近くにいたのに…。
結局、彼女が帰ってきたのは夜遅い時間だった。

例えば…
彼と彼女が一緒の休日だったあの日。
これから出掛けようと車に乗り込んですぐ、部屋に忘れ物を取りに行った彼女。
バッグと共に助手席に置かれた彼女の携帯が鳴った。
その画面には、名前が登録されていない番号が表示されていた。
彼は、以前からその番号を知っている。
無言で通話ボタンを押すと、暫くして
「……………………もしもし?」
当然、カレの声だった。
思わず電話を切った。
…何故電話に出たりしたんだろう…
彼は、自分の行いに後悔した。
そして…もっと自分が嫌いになった。
呆然と窓の外を見ていると、彼の視線の先に停まっていた車が動き出した…。
戻ってきた彼女に対し、
「何でカレが、家の前に居んの?」
「私に聞かれても、わかんない…」
「じゃ何で電話来んの?こないだ電話番号替えたばっかりだよね?」
「職場を出たら、たまたま偶然、前で会った…」
「会っただけなら番号わかる筈ないじゃん!何で知ってんの?」
「聞かれたから…」
「教える必要あった?」
「だって…………聞かれたから…」
…理由になんかなってない…
当然ながら、実際は偶然などではない。
彼女がそこで働いていることを、彼は最初から知っていた。
カレが電話したら
「お掛けになった電話番号は、現在…」
とアナウンスが流れ、
…ん?どうしたのかな?番号変えた?…
と思い、彼女の職場の前で待っていた。
それが前述の遅く帰って来た日の出来事。
その少し前に2人の休日が重なった日、彼が突然、
「一緒のキャリアにしようよ?その方が安く済むし…」
と、わざわざ新しい番号で契約した労力は、全く意味を為さなかった。

正直、まだまだ幾つも列挙できる…。

出張に出る数日前、彼は
「これ…誰からコピーして貰ってるの?」
以前と全く同じ事を訊いてみた。
彼女の答えは、やはり同じ。
「ゆかりちゃん…前に言わなかったっけ?」
…言ってたね。でも…
確かにゆかりちゃんは、彼女と同じ会社の社員。
しかし、だいぶ前の人事異動で既に職場は別々になっている。
そう滅多に休みが重なる筈もなく、会う機会は少ない。
それなのにDVDが増えるのは、決まって彼女の休日だった。
「ゆかりちゃん?」
「そだよ。たまに一緒に食事行くから…」
「今まで何回くらい行ったの?」
「4~5回…」
「ふ~ん。じゃあその時にバッグに100枚以上も入れて持って来た訳?少なくても、5~600枚は増えてるけど…?」
彼女は口籠った…。
実際、DVDに書かれているタイトルは、ゆかりちゃんの筆跡ではない。
以前に彼はゆかりちゃんと会ったこともあるし、その時に見たゆかりちゃんの書く文字も記憶している。
それとは比較にならないぐらい雑で、汚ない文字。
明らかに男性のものだ。
その特徴のある書体から、素人でも全てが同一人物によって書かれたものだと断言できる。
それでも彼は、ずっと平静を装ってきた…。
しかし、彼は蓄積した苦しみに堪えきれず、彼女を責めた…。
「これってカレの字…だよね?まだ逢ってんの?」
「逢ってない…」
「逢ってんじゃん!今まで何度も見てんだけど!?もしカレと逢ったんならちゃんと言ってよ!って言ったよね!?逢いたいならちゃんと言ってよ!ダメって言わないから!…ちゃんと言ってさえくれれば…!」
…それだけで良かった…
そうしてくれたら、彼は苦しまなかった。
それなのに…
「………………」
彼女には何の言葉も思い浮かばなかった。
「なんで!謝りもしない訳!?じゃあ、俺が同じことしていいの!?」
「イヤ…」
「じゃ、何で逢うの?」

…もし、この時…
いや…もっとずっと前から…
彼女が違う言葉を選んでいたなら…
2人は何が違っていたのだろう。

「ごめんなさい…もう逢わない…」
そう彼女は嘘を吐いた。

電話がくれば出てしまう。
逢いたくなるし、電話もしてしまう。
温泉、カラオケ、旅行、行楽地、飲食店…
どこにいってもカレとの想い出が甦る。
影を拭い去ることなんて出来ない…。
それくらい大切な時間を一緒に過ごしてきた。
抑えられないカレへの想い…。
それは、二人の間に、別れたくなくても別れなければならない過去があったから…。

「不倫…って関係には憑き物のお話し…って言ったら理解してくれる?」
いつだったか…
確か彼にはそう言った筈。

彼女はカレと駆け落ちを真剣に考えた。
そしてあの時、なるべく小さく纏めた荷物を片手に、彼女は駅でカレの到着を待っていた。
でも、そこにカレは来なかった。
来たのは、別の人。
「もう逢わないで…」
そう言われた彼女は、泣き崩れた。

悪いのは自分だ、と充分理解している。
でも、その気持ちを制御することが彼女には出来なかった。
離れ離れにされたことで、より一層逢いたい想いが募っただけ。
…傍に居て欲しい…
…傍に居たい…
…偶然でも、会いたい…

そして、感情を抑え切れなくなった彼女は、カレの会社の近くに職場を探した。
その数ヵ月後、ついに彼女の想いは叶う。
人気のない洗車場に停めた車内で、再会した二人はキツく抱き締め合った。
その瞬間、二人に笑顔と涙が溢れた。
聞きたかったこと、伝えたかったこと全てと共に。
気持ちが舞い上がり、どれくらい話したかさえも覚えていない。
カレに送ってもらい家に着いたのは、かなり遅い時間。
別れ際、互いに新たな連絡先を交換した。
再び、例え隠れてでも、例えほんの一時でも、同じ時、同じ空間に居られるようになったことが嬉しかった。
…もう絶対に離れない…
でも…一緒になれないことも解っている。
彼と出逢ったのは、そんな寂しさをふと感じた時。
全ては…そういうこと…。


そんな彼女の苦しくて切ない想いは、彼も理解しているつもりだった。
それは、彼にも、別れたくなくても別れてしまった過去があるから。
当時、若くして結婚していた彼は、婚約者のいる女性と恋に落ちた。
彼が家庭を崩す切掛けになった魅力的な女性。
出逢った場所、一緒に行った場所、プレゼントしたもの、子供と三人で遊んだ日曜日、二人で過ごした時間。
その想いを失いたくなくて、ずっと一緒にいたかったのに、その選択肢は閉ざされた。
サヨナラさえも言えずに、突然その女性との連絡が途絶えた。
それでも、いつも待ち合わせていたあの時間、あの場所で、何ヵ月も待った。
結局、彼はただ諦めるしかなかった。
互いの想いをあの場所に置き去りにしたまま、季節は流れていった。
偶然再会したのは、数年後。
変わらずに、とても素敵なままだった女性。
助手席に乗せ、あの待ち合わせしていた場所へと向かった。
そこで何時間も話した。
…何故、逢えなくなってしまったのか…
…何故、連絡すら取れなくなったのか…
ようやくその時に、解り合えた。
…何故自分は、もう少しだけでも待っていられなかったのだろう…
彼はただ後悔した。
婚約者と結婚したものの、結局はすぐに離婚したとのこと。
それから再び連絡を取り合うようになり、逢うようになった。
ただし、素敵な、そして大切な“友達”として…。
彼は、
「もう一度やり直そう…」
と何度も言いかけた。
それを望んでいるかどうか…
当然訊くことだって出来た筈。
しかし彼は、そうしなかった。
互いに、そうしなかった。
何故なら…それぞれに大切な人がいたから…。
最後にTELで話したのは、その女性が再婚した後。
「子供はまだなの?」
という彼からの問いに、
「まだ全然考えてないよぉ」
と笑って答えた。
その時、本当は妊娠していたことを敢えて隠した真意を訊けないまま、精一杯の背伸びをして彼は言った。
「そっか…。今度こそ、幸せになってよ?」
「あなたもね…」
そして二人の関係を素敵な想い出にした。
その女性を愛していたから。
今も、これからもずっと愛しているから。
そして…彼女を愛していたから。
今も、これからもずっと…。
木蓮の蕾が開き出すのを見る度に、彼の胸は締め付けられる。


だからこそ…彼は彼女に
「もうカレと逢わないで!」
と言うことが出来なかった。
そのつもりもなかった。
彼は、束縛するような自分が凄く嫌いだった。
彼女の想いを大切にしたかった。
止めることなど出来ないことも解っていた。
それならばいっそ、真実を打ち明けてくれさえすれば、安心してカレに彼女を預けることだって出来たのに…。
βとのプレイは、その為に始めたようなもの。
彼自身がそれを受け入れることで、肉体的な彼女とカレとの関係など、何の問題もなく“正当化”できる。
しかし、彼の知らないところで逢っている現実…。
それを彼女が伝えられないのは、後ろめたい気持ちを抱いていたから。
精神的な繋がりを彼に知られたくなかったから。
結果、それが彼を精神的に追い詰めていった…。

過去に2人が喧嘩したのは、殆どカレの存在が原因。
そんな状態のまま、彼は出張など行きたくなかった。
例え、レイカに出逢うことがなくても…。
…よく考えれば、彼女は最初から浮気なんてしていなかったのかも知れない…
…実は、自分の方が、浮気相手だったとしたら?
それは笑える。それなら頷ける…
彼は、自虐的なことさえ考えるようになっていた。
もうずっと何年も、2人は一緒の部屋で暮らしてきたというのに…。


そして…開かれたチェスト。
あの会話をした後からもDVDが数十枚は増えていた。
ざっと数えて、総枚数は1000枚をゆうに越える。
単純に計算しなくても、どのくらいカレと一緒に過ごしたのかは一目瞭然だろう。
見慣れないDVDのフォルダを捲ってみると、タイトルだけは、彼女の字体に変わっていた。
…ふぅ~…
深い深い溜め息を吐き、彼はただ、そっと引き出しを閉じた…。


思っていたよりも随分遅く帰ってきた彼女は、どこかよそよそしかった。
彼女が感じる彼もまた、同じ。
それ以上に、ずっと連絡もないまま突然帰ってきた彼に怒りしか感じない。
「おかえり……いつ帰ってきたの…?」
「ただいま…昼過ぎ…一旦会社に寄ったけど…」
「何で、全然電話してくれなかったの!?」
「忙しくて…」
「帰ってくるのぐらい、もっと前にわかってたでしょ!?」
「自分だって電話しても出なかったり、掛け直してくれないことだってあんじゃん…!今だって…何やってたの!?」
「私が聞いてんの!」
出張に出る前にした喧嘩の続きをしそうになった…。
そんな時は適当な言い訳をするよりも、彼はただ謝り、彼女の機嫌を取る。
「ごめん…」
そして逃げられないように急いで抱き締めて、そっと頬に…唇に…と、すっごく優しいキスをする。
触れるか触れないか…くらいの。
それが彼の常套手段。
そして判っていても、罠に掛かる彼女。
そのまま彼はベッドに押し倒そうとする。
「お風呂入ってない…」
「そのままでいい…」
「私はヤだ…」
その夜、ギクシャクしたままの2人は、一緒のベッドに眠った。
…やっぱり今日も逢ってたんだね…
そう思いながらする彼女との久し振りのSEXは、何かが違っていて、悲しかった…。
それは彼女も一緒。
…他に誰か、いい女でも出来たんでしょ?…


土日の2日間は完全な休みを貰った彼は、彼女を仕事に送った後、仕事用のバッグの奥から黄色い携帯電話を取り出した。
それは、出張から戻る少し前に、レイカとの連絡の為に用意したもう一台の電話。
気を遣っているのか、怒っているのか、レイカからは電話もメールも着信は入っていなかった。
彼は彼で、
…仙台に着いたよ。あとで電話するね…
と昨日メールを送ったきりだ。
TELをしてみる。
すぐに出たレイカの第一声は、
「もう電話なんかくれないと思ってた…」
「何で?そんな訳ないよ…」
「どうせ彼女と仲良くしてたんでしょ…?」
すっかり彼の行動は、見透かされているようだった。
「…………そんなことないから…」
ほんの少しの間が、レイカの心を乱した。
一気にレイカの声のトーンが落ちる。
「……戻ってくる日が決まったら、電話ちょうだい…」
「うん…火曜か水曜位には戻れると思うから、もう2~3日だけ待ってて…」
「わかった…待ってる…じゃ…」

その夜、ベッドの中で彼女は告げられた。
「ごめん、少し距離を置きたい…」
よく耳にする別れ話の出だし。
突然の言葉は、彼女には納得できなかった。
「距離置きたいって…………急に何で?」
「ごめん…」
何度訊いても、彼はその一言しか答えてはくれなかった。
彼の真剣な眼差し。
…私の前から彼がいなくなるのは、きっと他に女ができた時…
彼女には、以前からそんな予感があった。
そして
…これが、現実なんだな…
「そっか………解った…」
…でも離れたくない…
そう思った彼女は、彼を責めた。
言葉ではなく、彼女の身体で。
彼自身に想い出して欲しくて。
彼女の身体を忘れられないようにと。
しかし、いくら彼女がキスしても、どれだけフェラしようとも、ペニスをヴァギナに入れようとしても、彼は小さいままだった…。
そしてようやく彼女は気付いた。
…本当にいなくなっちゃうんだ…
涙が溢れてきた。

その翌朝、
「黄色いの見なかった?」
と彼が訊いてきた。
「知らない…何?黄色いのって…」
「電話…」
「何で?黄色い電話なんて持ってないでしょ?新しくしたの?」
「いや、違う…もう一個買った」
「何でそんなの要るの!?」
「もういい…」
「ねぇ!何で!?」
「もういいってば!」
結局、彼が幾ら捜しても、その黄色い携帯を見付けることはなかった。
…彼がどこかに落としたのか…
それとも
…彼女が見付けて棄てたのか…
真実を知っているのは、彼女のみ。

数日後、駅のホームに立つ2人。
「ほんとにもう戻らないの?」
「ごめん…わかんない」
「戻ってきてくれる?」
「ごめん…わかんない…」
「ねぇ?お願い…………………
…………………身体だけの関係でもいいから…」
その言葉に彼は驚いた。
彼女がどんな意図を以て、そんなことを言ったのか…
その時の彼には理解できなかった。
例え、
…それでも私は愛しているの…
という意味だとしても、彼には偽りとしか思えなかった。
…カレとも、ずっとそうしてきたの…
彼女の言葉をそんな風にさえ捉えていた。
「ごめん……」
とだけ彼は言い、彼女をそっと抱き寄せた。
そして、最後のキス…。
しかし、彼女は俯いてそれを拒絶した。
「バイバイ…」
「うん…バイバイ…」
新幹線のドアが閉まる。
その時の彼の何故か安堵したような表情に、彼女は
…ほんとにもう戻って来ないつもりなんだね…
そう確信した。


2019/04/20 更新

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